読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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アウトプットの重要性

今まで古今東西、現実世界でもインターネット界でも、言い古されてきたことだと思うけれども、アウトプットは重要である。今更ながらにひしひしと感じている。

ここ数年、驚くほどに、年月の流れを早く感じる。数年前のことが、ごく先週のことのように感じる。20歳くらいから、考え方が何も変わっていないような気がする。読んだ本も、経験も、何ひとつ身になっておらず、ただただ、私の体を通過しただけなのではないか。

私の人生、これで良いのだろうか?
もう少し、身のあるものに出来るのでは?

自分の中に何も残っていないのは、私が受動的に生きているからであろう。受動的に、流されるように毎日を生きてきた。
受動的な生き方の反対、能動的な生き方をするにはどうすれば良いのか。能動的な生き方ってなんだ?

その答えのひとつとして、「アウトプットを行う生き方=能動的な生き方」説、という仮説を立てた。
アウトプットする、すなわち、言語化する。言語化するためには、考えなければいけない。自分の中を通り過ぎていく出来事を、自分なりの見方を持って解釈し、言葉として翻訳しなければならない。言語化することは面倒くさいし、考え言語化しアウトプットすることは、この社会ではたいして求められてはいない(少なくとも今の私は、会社からも家庭からも自発的なアウトプットを求められてはいない)。だからこそ、能動的に行うしかない。

ここ数週間、人に見せる見せないは別として、アウトプットを意識している。
たしかにアウトプットを意識すると、本の読み方も変わったし、自分の中のもやもやした悩みに言葉を与えると、悩みは解決すべき課題となった。しかし、気がつくと、何も考えずに反射的に生活をしている私がいる。求められた型に沿ってしか仕事をしていない私がいる。
ここ数年間放棄していた主体性を取り戻すにはまだまだ時間がかかりそうだ。

毎日を、ただ消費する月日ではなく、人生の大切な1ページとなるように日記をつける。ただの時間つぶしの読書ではなく、趣味としての読書となるように読書記録をつける。自分の気持ちを察してほしいと思うのではなく、感情に言葉という輪郭を与えて、家族と共有する。
そんな小さなことから、アウトプットを続けていきたい。

読書感想を書くことは難しい

梅雨も明け、本格的に蝉たちが鳴き始めている。学生たちはもうすぐ夏休みである。

夏休みといえば読書感想文である。大人になった今、改めて思うのは読書の感想を書くことの難しさである。4年間ほど、読書ブログを続けているが、一向にコツがつかめない。今の状態で、学生時代に戻ったとしても、良い感想文が書ける気は全くしない。

小説の感想を書くのは難しい

読書の感想、特に小説の感想を書くことは難しい。その理由のひとつは、「面白かった」という感想を改めて言語化することが難しいからであると思う。私が読書ブログで伝えたいことは「この本面白かったよ!」というシンプルなことである。しかし、面白かった本を面白かったと伝えるだけでは芸がない。良かった本のAmazonのページに星をつければ良いだけの話になってしまう。

面白かったと伝えるためには、私が小説のどこをどのように読み、そしてどう思ったのかを伝える必要があるだろう。そのためには、まず、自分の中で、自分が面白がっていることを認識しなければならない。なんとなく、面白いなあと読み進めるだけでは、面白いの言語化はできない。読後にでも「面白かった!では私にとってこの本は、どうしてこんなにも面白かったのだろか?」という問いを立てなければならない。
私が読書の感想をブログに書こうとするものの、言葉が出てこず挫折するのは、この問いを立てることが出来ていないからだろう。文章の表面をなぞるように面白がっているだけで、自分の中で咀嚼していない。だから、面白かった以上の感想が出てこない。

どのような感想文が読みたいか

私は読書ブログや読書エッセイを読むことも好きである。特に、作者が生活のなかでどのように本を手に取り、どのように読んだのか分かるエッセイが好きだ。本を読んで、何を連想したのか、何を考えたのか。本を読んだ結果、作者がどう変わったのか、変わらなかったのか。

他の人が本とどのように付き合っているのか、それを知りたいと思う。私は本が人を変える魔力があると信じているし、だからこそ読書は面白いと思う。その魔力が伝わってくるような感想を読みたい。そして出来れば書いてみたい。

そのためにも、もう少し自覚的に、どうして私はその本を手に取ったのか、その本をどのように読んだのか、そして、読んでどのように感じたのか、問いを投げかけながら、読書に向き合いたい。

ヘプタポッドとネアンデルダール人

仕事中、ふとした瞬間に、何の脈絡もない言葉が頭に浮かんでくることはないだろうか。私にはよくある。最近、やたらと「ヘプタポッド」という言葉が思い浮かぶ。

ヘプタポッドといえば、テッド・チャン作のSF短編『あなたの人生の物語』において、人類とコンタクトをとる7本足の宇宙人である。そしてヘプタポッドという言葉が思い浮かぶと、その物語と共に、ヘプタポッドたちの独特な文字・言語や彼らの人間とは異なった世界の認識方法が連想される。ヘプタポッドたちは時制を超越した言語を操り、決定論的な世界観のなかで生きているのだ。

世界を認識する

人間は人間の方法でしか世界を認識できない。しかし認識方法が異なれば世界は全く違う様相を示すという可能性がある。
それは当たり前のことで、宇宙人に登場願わなくとも、私たち人間と他の生物では見えている世界は大きく異なる。
私は魚が好きなので、水槽を泳ぎ回る彼らを見ながら時々思う。側線という人間の持たない感覚器官を持って、水中世界を泳ぎ回る彼らには、世界をどのように認識しているのだろうか、と。想像力が貧困なので、魚の感覚は想像しきれない。他にも、複眼を持つ昆虫たちが、どのように世界を認識しているのかも気になる。時々、博物館にありますよね、「複眼を体験してみよう」という装置。沢山のレンズに、同じ風景が写っているやつ。

認識の違う生物とのコンタクト、というテーマで、今一番気になっているのは、我々の先祖と他のヒト族とのコンタクトである。

最近『カラー図解 進化の教科書 第1巻 進化の歴史』(カール・ジンマー、ダグラス・J・エムレン)というブルーバックスを読んだ。この本は第4章が「人類の進化」という章であり、類人猿からヒトへの進化の歴史をテーマにしている。興味深いのは「4.5 古代遺伝子からの知見」という部分である。ここでは、ヒトの異種交配について述べている。この本によれば、ヨーロッパ人とアジア人の遺伝子の2.5%はネアンデルタール人由来のものであるという研究や、デニソワ人の遺伝子を持っている人がいるという研究があるそうだ。

ヒトの異種交配。興味深く、面白いと思いませんか?
次々と疑問が浮かぶ。

ホモ・サピエンス以外のヒトは、どのように世界を認識していたのか。
ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人をどのように認識していたのか。
異種間で意思疎通はできたのか。
異種交配はどのような過程で起こったのか。頻度はどのくらいあったのだろうか。
異種交配の結果の遺伝子が現在のホモ・サピエンスに受け継がれているということは、異種交配で生まれた子供が古代ホモ・サピエンス社会で受容されたということだろうか。異種間の子供を社会はどのように認識していたのだろう。

考えると考えるだけ気になってくる。

ということで、次の本として『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(川端裕人)を読んでみたいと思う。
進化人類学の論文も探してみようかな。あと、『あなたの人生の物語』を原作とした映画『メッセージ』も観たいなあ。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)