今の時代は失い続けるしかない。『袋小路の休日』小林信彦 講談社文芸文庫
小林信彦の連作短編集。雑文書きの宏を語り部にした七編が収められている。
『隅の老人』
『北の青年』
『根岸映画館』
『路面電車』
『自由業者』
『ホテル・ピカデリー』
『街』
短編を通じ、主人公宏は何かを成し遂げるわけではない。
人生という旅路においてすれ違った人や街について「漂いつつ観る(by野坂昭如)」だけだ。
背景には、戦後の高度経済成長がある。
急速に変化する時代の、時の流れの残酷さがある。
平成生まれの私にとって、高度経済成長も、オイルショックも、デフレも、過去の時代、歴史である。
過去の時代を通して出来上がった平成不況の世しか知らない。
だからだろうか。
宏の目に映る世界は、私にとっては、まるで異次元である。
異次元、ファンタジーの世界が、強いリアリティーを持って私に迫る。
異次元な時代が、決して、近現代史の教科書に書かれるような平板なものではないと知る。
高度経済成長と聞くと、社会の欲望と個人の欲望が同じ方向を向き、今日よりも明日が良くなるといった希望が持てた幸せな時代を私は想像する。
けれどももちろん、誰もが幸せなわけではなかった。
社会は加速し、昨日よりも確かに今日は幸せな時代かもしれないが、その速度についてこられなかった人間がいた。
先頭を走っていたつもりでも、ある日気付くと最後尾にいる。
新たな物を獲得しては、捨てていく。
たくさんの物が、人が、街が、思いが、失われた。
私は、ポケベルがどんな形の物なのか、実は知らない。
今の幼児はきっと、ガラケーを知らない大人になるのだろう。
高度経済成長期に加速した時代は、今もその速度を保って走り続ける。
今も、私たちは多くの物を失い続けているのだろう。
宏はしかしそのことを評価はしない。
速すぎる流れに身を任せ、その速さに取り残された人々や街を静かに観つめた。
私たちにできることも、速さに負けぬよう走り続けるか、速さに身を任せるか、流れのない水底に身を沈めるか、といったことしかないのかもしれない。