読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

人類哲学は人類を救えるか。『人類哲学序説』 梅原猛

 哲学と思索と宗教と人生論の違いが良く分からない。

 一応理系の人間なので、科学とは何かということは習ったが、哲学の諸学派の科学的な正当性というものは良く分からない。が、私のような趣味としての読書や思索のまねごとには関係ない。

 

 そのため私は文字で書かれた本は、実用書・小説・エッセイの三種類に分けて認識している。この私なりの区分に従えば、大抵の新書はエッセイであり、岩波新書である本書も同様、エッセイであると認識している。エッセイという言葉には、軽い読み物というニュアンスがあるが、しかし私はエッセイを軽く見ているわけではない。著者の考えが日常生活(本を書くような人間にとっては思索や研究も日常生活の一部であろう)を通し、ダイレクトに伝わってくる本をエッセイと認識しているのだ。この分類の利点としては、趣味として、本との適切な距離がとれることだ。どんなに偉い人でも間違えることはある。ちょっとこの書き方はないんじゃないの、というか論理が飛躍しているよね、といったところがあっても(社会学系の新書によくあるような…)、ものすごく腹が立つということはない。距離を置くことで、一人の著者に影響を受けすぎるのを防ぐことができる。

 本書『人類哲学序説』を手に取った時、題名と岩波の赤色に身構えてしまったが、中身は分かりやすく噛み砕かれており、文体はまさしくエッセイのようで読みやすかった。

 

 著者は冒頭、現在世界で広く認識されている哲学は西洋人が西洋人の価値観で産み出した西洋哲学であり、人類全体のものではなかったと看破する。

 西洋哲学の基には、ギリシャ神話やヘレニズム文化があり、人間による自然の支配がある。プラトンのイデアの世界であり、一神教の世界である。そしてこの世界は人類の十万年の歴史を考えると決して古いものではない。農耕や牧畜を獲得した新しい人間たちによる新しい価値観である。この価値観は今や急速に地球を飲み込み、無反省な人類はこれを良しとし、自然を征服した。けれども現在、この価値観による自然征服は限界を迎えようとしている。西洋哲学の巨人たちも、人間中心主義を根底に有する限り現状の克服=新たな人間哲学の創造には至らない。

 著者は新たに提唱する人間哲学の根幹に「草木国土悉皆成仏」という仏教思想を添える。天台本覚思想に出てくる言葉だが、日本古来の神道=アニミズムの流れをくむ考え方である。八百万の神、というやつか。著者の主張は、アニミズム、即ち、狩猟採集民族の思想に帰れ、ということである。

 そこには自然への尊敬があり、自然の中で人間は小さな動物にすぎない。

 

 日本人の、というかアニミズム多神教が息づく国で生まれ育った私にとって著者の主張はごく自然に体に流れてくる。非科学的だが、草木にさえ魂があるという考えもなんとなく分かるし、巨木を見ると何やら神聖な気持ちになる。

 もちろん科学と技術の発達の上に今の生活が成り立っていることは十二分に理解しているし、思想だけで現在進行中の自然破壊がなくなるとは思わないが。

 

 一読者の分際で著者の哲学の抱える問題をあげるとすると、すべての物に仏性があるという前提が、宗教の問題であることだ。宗教とは文化そのものでもあり、文化とは日常生活の積み重ねである。

 文化の根底となる世界観は、すでに日常生活に根付いており、一度その空気を吸ってしまうと、意識したところでなかなか変えられるものではない、と思う。つまり多神教的世界で育った私が、一神教的世界を真に理解できないように、一神教的世界の人間は多神教的世界を真に理解できないのではないか。

 ちなみに私は、外国人のエッセイにある、常に神に見られている(判断されている、試されている)という感覚が、このように言葉では理解できても、体感としてどうしても分からない。

 

 人類哲学は素晴らしいが、彼の思想を広げるためには、異文化理解あるいは文化の解体と再構築という大きな課題があると思ったりした。