クリスマスに読んだ本。三浦綾子 『母』
メリークリスマス。と、挨拶代わりに言ってみる。
さて2013年のクリスマスである。
私は季節のイベントなどを気にして本を選ぶ方だ。
例えば秋の夜長に『ドグラ・マグラ』など。
だからと言って、あからさまにクリスマスの本や映画を観賞するのもちょっと気が引ける。
情緒的な癖にへそ曲がりなのは分かっている。
では何を読もうか。
23日の夜、積読本の中からそれらしき本がないかと探してみた。
あった。三浦綾子の『母』。角川文庫。
キリスト教作家の書く、家族の話。
クリスマスはキリストさんの誕生日だと言うし、良いのではないだろうか。
母性と労働
読んでみた。
24日25日とかけてじっくり読むつもりだったが、面白さに24日の朝には読み終わってしまった。
キリスト教的小説かと思ったが、良い意味で裏切られた。
宗教や政治的信条を越えた普遍性を感じさせる物語であった。
「母」とは誰の母か。
小林多喜二の母である。
この小説はプロレタリア作家の母である小林タキの一人語りである。
共産党員として特高に惨殺された息子を持つ母の物語は、しかし、政治思想が内包しがちな排他性を持たない。
物語に溢れるのは庶民の貧しさと明るさである。
十四歳で嫁に出されたタキは、無学な働き者である。
そして子を思う母である。
その母親としての姿勢に古今東西の母親を貫く真理を感じる。
だから明治から昭和を描くこの物語は常に新しい。
どの時代においても母親は無知で、無力で、自ら腹を痛めて産んだ子のことを思うことしかできない。
物語の後半、亡くなった多喜二をキリストに例える場面がある。
だからといって宗教臭さをあまり感じないのは、キリストがマリアの子であり、キリストが一宗教の創始者である前に一人の母から生まれた一人間であるからである。
そして息子の死に遭遇した母マリアの悲しみが極めて普遍的人間的な悲しみであったと想像されるからである。
またこの物語に描かれた貧しさは、今こうしてごく普通の生まれの大学生がノートパソコンのキーを叩く生活をしていることからは、想像できない程のものがある。
当たり前に貧しさがある。
貧しい家に生まれてしまったのなら、口減らしに売られてもしょうがない。
貧しい者は貧しさを受け入れるしかない。諦め。
しかしタキの語りからは貧乏の悲惨さは感じない。
貧乏暇なしとは良く言ったものだ。
タキは働いて、働いて、それでも自分より貧しい人々に同情して涙を流す。
そして貧しい中必死に子どもたちを育て、明るい家庭を築いていく。
まっとうに生きても報われない運命を恨むでもなく、力強く生きていく。
その姿に労働の尊さ、のようなものを感じた。
ここにも生きていく人間の普遍性がある。