読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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本と共に生きる 『強く生きるために読む古典』 岡敦

どうして古典作品を読まねばいけないのか。

このような議論は今まで星の数ほどされてきただろうし、これからもされるだろう。
私個人の見解としては、読む必要のあるべき本など一冊もない。
それが古典であっても、今年のベストセラーであっても。

ではなぜ私は古典作品を読むのか。
それを説明するのは難しい。
難しいというよりも、矛盾が生じそうで怖い。
なぜなら私の大嫌いな「効率」という言葉を使わなければ説明できないからだ。

私の読書力からすると、一生に読める本の数はせいぜい一万冊弱だろう。
読んだ本は良くも悪くも自らの人生の一部になるという前提を立てる。
良い人生のために良い本をできるかぎり吸収したいと思う。
(この時点ですげに矛盾があるが)
しかし良い本かそうでないかは、当たり前だが、読まなければ分からない。
とすれば一万冊という制限の中で、良い本を読む割合を増やすためには、良いと言われる本の中から本を選ぶべきであろう。
古典と呼ばれる本は、時間という強力なフィルターを通っているだけ良い本である確立は高い。
つまり効率的に良い本と出合う為に、私は古典を読む。

本書は、私のような効率主義を鼻で笑う。
良い本かそうでないかを決めるのは、本ではなく、読者である。
効率を求めていては、良い読者にはなれない。
良い読者とは、考える読者である。
本を読み、自らの頭で考え、その過程を通しようやく本は「強く生きていくため」の血肉となる。

「できそこない」のためのブックガイド。

私は著者と同様「できそこない」である。
だから「はじめに」の言葉に強く励まされた。
著者は言う。

ぼくは本を、自分が生き延びる助けになるように読む。無能で不器用で余裕がないから、それしかできない。

できそこないの私の人生にも、いつも隣には本があった。
私は著者よりも余裕がないので、助けになるように、などとも考えないで必死に読んできた。
本は、確かに私を助けてくれた。
少なくとも今まで自殺せず生き延びてこられた。
本の中には立派な人間もダメ人間も、立派でもダメでもない多面性をもった人間も、たくさんいる。
状況だって様々だ。
本の中には、貧乏のどん底も戦争も未開の地も王の座も死刑執行台ある。
本の中の彼らはどんな状況でも、迷いながらも、確かに生きている。
私は、知らず知らずのうちに、必死に生きる多くの人々に励まされてきたのだろう。

できそこないの私は本に聞く。
友達にも親にも、こんなことは聞けないから。

「生きていてもいいですか」

本は必ず、応えてくれる。
私はこうやって生き延びてきた。

主観によるブックガイド。

本書は著者の主観によって成り立っている。
この本には古典の正しい読み方なんてない。
著者がその本をどうやって辿って行ったのか。
読者である私たちはその軌跡を追うことができる。
変わった体験である。
同じ読書人として、共感したり、できなかったり。

紹介されている9冊のうちドエトエフスキーの『悪霊』(未読)とカミュの『異邦人』(既読)を読んでみようかなと思った。
特にカミュに関しては、カミュの「不条理」を「場違い」と読んでおり興味深い。
『異邦人』が『シーシュポスの神話』と同年発表だということも本書で知り、興味深かった。

自殺とは認識の不足である。

『シーシュポスの神話』より。カミュには何度助けられたことやら。

強く生きるために読む古典 (集英社新書)