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読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

「老い」の発見 『老いの歌―新しく生きる時間へ』小高 賢

読んだ本 新書・ノンフィクション

「老い」を詠むのに短歌はぴったりのツールである。
なぜならば、短歌は「私」を詠むのに適しているからだ。
俳句は「私」を詠み込むには短すぎ、小説では「私」以外の人間の視点も必要だ。
定型であることは、表現を狭める枠ではなく、むしろ表現することの助けとなる。
「自由作文」よりも「読書の防忘録」という枠があった方が書きやすいように。
本書は「老い」と短歌の新しい蜜月を、多様な実例を示し説いていく。

第一章 老いの時代へ
第二章 老いの百景
第三章 〈老い〉というフロンティア
                             (目次より)

「老い」の恐怖

長生きしたいか、との問いに素直に頷けない自分がいる。
そりゃあ、二十代の体と気楽な学生身分が、死ぬまで続くのならば長生きしたい。
しかし実際そんなことはないわけで、長生き人生の末期には「老い」が付きまとう。

―――「老いる」ことは怖いですか。
―――怖い。

それは今の自分ではなくなってしまう怖さである。
今まで必死に隠蔽していたあれやこれやが露呈してしまうのではないかという怖さ。
偽善の仮面が剥がれおちるのではという恐怖。
もちろん、明日にでも事故るなり発狂するなりで、今の自分ではなくなる可能性はある。
しかし老いることへの恐怖の方がなんとなく、可能性としては高そうに思える。
(実際は可能性の問題ではないのだろうが)

―――では30代になるのは、怖いですか。
―――怖くない。
―――40代では、50代では、60代では。

何歳になると怖いのかというと、実ははっきりしていない。
漠然と「老い」という事象を恐れている自分がいる。
何故、漠然と怖れる必要があるのかというと、人類にとって「老い」が未知であるからだ。
平均寿命が50歳程であった時代はそう遠くない。
今のご長寿さんたちは、人類未踏の世界を生きているのだ。
その未踏域の地図はまだ、ない。

抽象としての「老い」から個人の「老い」へ

私が老人と言われる年になるころには、長寿地図も多く生まれているだろう。
けれども、地図があっても安泰とは限らない。
「老い」はあくまで個人のものなのだ。
その様相は多様であり、隣人の「老い」の姿が私の「老い」と重なることは、まず、ない。
結局は、一人ひとりがオリジナルな「老い」に対面しなければならないのである。
その時に、どのような態度で臨むのか。
答えはどこにもない。
でも、だからこそ、一人ひとりの「老い」を伝えることに価値がある。
その伝える器として著者は短歌を提案しているのである。
そしてその巧拙を越えた老いの歌にこそ、短歌の新たなフロンティアが広がっているという。
私は短歌を詠まない。
観賞もほとんどしないので、歌の善し悪しが分からない。
それでも、なるほどなと思いつつ、意外とすっきりと読み終えることができた。

私にとっての「老い」がどのような姿形をしているのかは分からない。
それでも私は、今日も少しずつ老いていく。
こうして必死になって言葉を発しているのも、老いゆく姿をどこかに残したいからかもしれない。

〈読書録〉

老いの歌――新しく生きる時間へ (岩波新書)
『老いの歌―新しく生きる時間へ』
作者 小高 賢
出版社 岩波新書(新赤版1327)
出版年 2011年