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読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

超然として生きる 『妻の超然』絲山秋子

読んだ本 日本の物語

面接で高ぶった精神を落ち着かせようと文庫本を買った。
『妻の超然』絲山秋子
軽い気持ちで読み始め、確かに読める本なのに、軽く読み過ごすだけでは終われない何かを感じ、驚いた。
軽く読み過ごすだけでは終われない。
本書は、現在の個人の在り方を「超然」という言葉で見事切りとった良書である。
文庫本258ページの中に、三作の中編が詰まっている。

浮気癖のある歳下夫を持つ妻が「超絶」した態度で夫に接する表題作「妻の超然」
恋人をはじめ周囲の人々や環境に対し「超絶」した視点を持って生きていく男の物語「下戸の超然」
「超然」として生きていくことを選んだ独身女性作家が、良性腫瘍の手術を受ける「作家の超然」

ぜひ、頭から順番に読んでほしい。
物語は、それぞれ三人称、一人称、最後の「作家の超然」では二人称で語られる。
「超然」とする対象も、特定の一人から社会、人生全般へと変遷する。
そして人生に超然として挑んだ先に、どのような光景が広がっているのか観てほしい。

「超然」とした私たち

「超然」という言葉ほど現代の日本社会を生きる私たち個人の在り方を表わした言葉もないだろう。
家庭や学校、職場という繋がりから放たれた私たちは、緩やかなネットワークを持ちながらも孤立し、各々が人々や社会に対し「超然」とした立場に立った。
誰もが自らを特別だと思い、このような小文を書いてみたりする。
「超然」とした立場に身を置くことは気楽である。
面倒なことは切り捨てればよい。気に食わない人間や状況は「超然」とした立場から見下せばよい。
面倒なものは金で片付けることができるし、寂しければインターネットで簡単に繋がることができる。
寂しさを埋めるために開いたホームページには「超然」とした批評家気どり達が蠢いていたりもするのだけれど。

けれども。著者は超然とした主人公たちをそのまま終わらせない。

 そもそも、文麿のことを真面目に考えたことがあるのか。文麿の行動は理解できる。けれども文麿が何を考えているのか、考えたことはあるのか、問うたことがあるのか。同じ時間に生きようとしたことがあるのか。
 そういったことを全てひっくるめた時に名付けるべき言葉は、超然ではなく、怠慢というのではないだろうか。  (p85『妻の超然』)

「解釈はどうでもいいけど、僕を巻き込むな」
 そして何でもかんでも将来に結びつけるな。
 すると彼女は言った。
「そうやっていつまでも超然としていればいいよ。私はもう合わせられないけど」   (p177『下戸の超然』)

超然とは何か。
相手や事象を、勝手にラべリングし、勝手に距離をとることである。
この人はこうだから、女の子を悲しませてはいけないから。
でもそのような態度では、真に相手や事象と向き合うことはできない。 
自分勝手な思いこみや義務感では、人の気持ちは分からない。
そして勝手に距離をとっている癖に、自分の気持ちを分かって欲しい、察して欲しいというのは、虫がよすぎる。

私たちは選択することができる。超然と生きるか否か。
私の中には二つの思いが相対している。

地に足を付け、人間関係に悩みながらも、人々と関わり泥臭く生きたい。
世界に対し超然と生きていき、世界の終わりを見てみたい。

現実的に考えれば、前者の生き方がある意味「得」なのだろうと思う。
人はどっちみち、一人では生きられない。人と関わらざるおえないのだから、能動的に関わった方がよい。
けれども多少「損」でも、一人孤独の内に生き死ぬ、という物語に「美」のようなものを感じる。
どうせ、世界は私の認識でしかないのだ。
人間にとって一番大事なことは、自身が「生きている」か「死ぬ」か、ということではないか。

 おまえは思う。超然というのは手をこまねいて、すべてを見過ごすことなのだ。
 栄えるものも、滅びるものも。
 価値のあったものが、ただのゴミになり、意味のあったことが抜け殻になっていく。畑の木の下や中途半端な形の土地に見捨てられた廃車と同じように、錆と植物と微生物に浸食され、ゆっくりとだが解体していく。
 おまえは、その全てを見ていたいと思う。   (p255『作家の超然』)

私も、全てを見ていたいと思ってしまった。
人間が必死に作りあげてきた意味の塊(例えば文明、例えば社会)が解体されていく様を。
すべての意味がなくなった時、世界には何が残るのだろう。
美しい夕映えか。

そして、面接の合否はまだこない。

読書録
『妻の超然』
著者:絲山秋子
出版社:新潮社(新潮文庫

妻の超然 (新潮文庫)