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読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

なんかいろいろ上手くいかないけど、死ぬのは怖いなという話

ときどき死にたくなります。
就活中なのですが、つい先ほど、不採用お祈りメールが届きました。
是非働きたかった所だったのですが、GD+テストセンターで落ちました。
面接もしてもらえなかった自分が本当に情けない。
で、「死にたい」とgoogleさんに打ち込んで、羅列される情報を茫然と眺め、勉強も手につかないしでメモ帳開いてこの文章を書いてる。

ときどき意味もなく、もしくは意味を見つけられなくなって、死にたいと思う。
そして、死ぬ瞬間のことを考える。
どの方法で死のうか、どの方法が他者に迷惑をかけないか、とか。
痛いのかな、とか、後悔するのかな、とか。

私の好きな物語では、自殺方法として入水自殺を選択していることが多い気がする。
森鴎外山椒大夫シェイクスピアマクベス太宰治人間失格……
そこまで多くないか。
でも安寿が厨子王を思って入水する所とか、マクベス夫人が井戸で手を洗い続けてそのまま亡くなる所とか、凄い好きだ。
自分がいざ死ぬとなった時、ちゃんと海に飛び込めるか不明だけど。
ふと、アガサ・クリスティ『崖っぷち』という短編を思い出した。海と崖のコントラストが、なかなかエグイ小説です。ちなみに『嫌な物語』というアンソロジーで読んだ。強烈な表紙絵と小説達が印象的な文庫本。オススメはしないでおく。

さて、死ぬ瞬間の話。
戦前のことだが、三原山の火口に身を投げての自殺が流行ったらしい。恐ろしい話である。
だが妙に引きつけられるものを感じる。
発端となったのはまだ21歳の少女らだったそうだ。
ある意味完璧な自殺方法を前にした彼女たちのことを考える。
飛び降りた瞬間から、火口に落ちるまでのわずかな時間を考える。
その瞬間、人は何を感じるのだろうか。恐怖を感じるのだろうか。

あるいは、拳銃による自殺のようにタイムラグのない方法をとったときはどうだろう。

ああ自分は不謹慎だなあ、と書きながら思う。
死にたいなんて、簡単に言うべきではないことは分かっている。
私はリアルでは「死にたい」とは絶対に言わない。
友人らの中には、口癖のように「あーもう死にたい」という人もいる。
「死にたい」なんて言うなよと思う。でも、そう口に出来る彼らがちょっぴり羨ましくもある。そういうことで、嫌々ながらも前に進むことが出来るのなら、いくらでも言えばよい。
私は「死にたい」とも言えない小心者なので、ブログに書く。あるいは、アナログ日記に書きなぐる。
想像してしまうものは、止めようと思っても止められない。
こういう時、言葉にすることは救いなんだろうな、と思う。
今も書きながら、死にたいという気持ちが、少しずつ小さくなっているのを感じる。

それに死ぬ瞬間を思うのは私だけではない。
荻原朔太郎『宿命』のなかの散文詩『自殺の恐ろしさ』というそのものズバリといった作品がある。
飛び降り自殺した瞬間の後悔。

だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきりと生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。

きっとみんな、死にたいと思ったり、でも死ぬのは怖いと思ったりしているのだろう。
今夜は坂口安吾『不良少年とキリスト』でも読みなおそうかと思う。


厭な物語 (文春文庫)