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中島らものエッセイを読む 『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』【読書感想】

中島らも『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』を購入。

中島らもという書き手を知ったのは、中学生のとき、母親の本棚を覗き見したときであった。
『心が雨漏りする日には』という本を見つけた。当時『症例A』などの精神病系ミステリやサスペンスを好んでいた私は「心」という単語に反応した。
パラパラと読み、母親はこんな本を読んでいるのかという衝撃を受けたのを覚えている。

そのころから「中島らも」=「なんだか凄い人」というイメージがあるのだが、どうやら間違ってはいなさそうだ。

本書は著者の中学生から大学生までの出来事について書かれたエッセイである。
著者もエッセイに出てくる友人たちや周囲の人々も常識外れで、変な人ばかりである。
変な人、なのにとても魅力的だ。
そしてゆとり世代の私たちが教育によって身につけさせられている「生きる力」とやらに満ちているようにみえる。
もちろん彼の世代の教育は詰め込み型だ。しかも彼自身は天下の灘高生。

時代の空気

世代論は好きだが、信じないようにしている。

人間の本質なんて早々変わるものでもないだろうし、人間が集まって作っている以上、社会も本質的には変わらないだろうと考えるからだ。

しかし「時代の空気」というものは、目に見えないし実証もできないけれども、確かにあるのではないかなと思う。
特に、自分が生まれていない時代や行ったことのない国で書かれたものを読むときに、強く思う。
『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』のあとがきは1987年に書かれているが、エッセイの舞台になっている時代は60年代から70年代にかけてである。
もちろん、私は、生まれていない。
近現代史として教科書で習ってはいる(平成生まれにとって、昭和は教科書で習うものなのだ)。
けれども90年代生まれの私には、その空気を体感することは永遠にない。
だが彼の言葉の間からは確かに当時の風が吹いているように思う。
父や母が若い頃感じていた風だ。
知りえないからこそ、私は、知りたい。

ある時代を生きた大人がその時代に書いたエッセイは多い。特定の事柄(例えば、学生闘争)について書かれたエッセイも多い。
しかし、子どもの時に感じたことを書いたエッセイというのはなかなかないように思う。
いや、あるのだが、本書のように一人の人間がまとまった量を書いて出版することは少ないように思う。
書かれている内容も、くだらないことや自分だったら恥ずかしくて書けないだろうなと思うことが多い。
だからこそ、私は、このエッセイから時代の風を感じる。

時代を越えて。

本書が出版されてから20年。
それでも本書のエピソードに共感出来る部分も多い。
特に大学生の部分。「第4部 モラトリアムの闇」。自分の歳や状況に近いからだろう。
私もどっぷりとモラトリアムに捕らわれている。

著者は浪人の末、大阪芸大に入学する。
しかしそこで彼は、鬱鬱とした4年間を過ごすこととなる。

その後、四年間僕は大学に行ったわけだが、ここに記すべきものというのがほとんどない。それは実に驚くほどで、「”鼻くそや”の先輩」とほぼ似たような無感動と、裏の池で釣りをしていた学生たちと同じ時間の感覚に染まって、僕は四年間を過ごした。   (p212)

僕は自分の来し方について悔やむということをほとんどしない人間であるけれど、この大学での四年間については「もったいないことをしたな」という気がしないでもない。といううのは、この「何もしなくていい時期」を僕はほんとうに「何もせず」過ごしてしまったのである。   (p218)

あーなんだか、すごくよく分かる、この後悔。

私は何も成していない。
このまま何も成さず、ただ、生きていくのだろうか。
何かを成すべきだった気がするが、もう遅い。私は歳をとってしまった。
何者にもなりたくないし、何者かになりたい。

日々、こんなことばかり、考えている今日この頃。
中島らもの言葉は、すっと胸に沁み入った。

タイトルすごい。

ところで、このタイトル『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』は秀逸だと思う。
助詞ってすごい。
そしてこのセンスが凄い。

私たちは町を踏み、町に踏まれて、大人になる。

読書録

『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 増補版』
著者:中島らも
出版社:集英社集英社文庫

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 (集英社文庫)