読書録 地方生活の日々と読書

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立派に生きたいと思った 深沢七郎『楢山節考』

今日は某就職試験の合格発表があった。
発表時間までの焦る気持ちを落ち着かせようと、とりあえず本を読む。
名作を読んでおこうということで買った一冊。
深沢七郎楢山節考。第一回中央公論新人賞の当選作である。

有名だから読んでおこう、という浅はかな考えで手にとってはいけない短編であった。
これは凄い。
何が凄いか分からないぐらい凄い。
合格発表が吹っ飛んでしまったぐらい凄い。

普通の小説とは、一味もふた味も違う。
題材は姨捨山であり、一見、昔話のようでもある。
昔話のように不条理であるのだ。

生きる不条理と昔話

舞台は信州の寒村。貧しい村である。
その村には多くの掟が残っていた。
現代の感覚からすれば不条理に思える掟。
例えば食糧盗みは大罪で、捕まった場合、犯人の家の食糧はすべて他の村人に分けられる。
食糧がなければ、生きていくことができない。
物語中盗みを犯した雨屋の一家は、ある日唐突に村から居いなくなる。
もう雨屋の話はするなと言われているので、村人はもう誰も雨屋の話をしない。
まるで雨屋の一家など始めからいなかったかのように。

70になったら楢山へ行くことも村の掟のひとつである。
楢山へ行く=姥捨てである。
貧しい村には年寄りを養う余裕はないのだ。
物語の主人公おりんは69歳。次の正月で70である。

おりんは立派であった。
楢山行きを拒むどころかむしろそれを楽しみとしていた。
楢山行きは誰もが辿って来た道なのだ。
拒むことは許されない。
だから、静かに受け入れる。

その村には選択肢がない。
仕事も結婚も、選ぶものではない。
生や死、運命さえも、選ぶものではない。
受け入れるものなのだ。
どうして? それが、村を存続させる=子孫を存続させる唯一の方法だからである。
だからと言って、人は自らの死を積極的に受け入れられるものなのだろうか。
怒りや悲しみを覚えずに済むものなのであろうか。

もしかしたら、おりんの村は過去の特殊な例ではないのかもしれない。

死を受け入れるという課題は、すべての人間に課されている。
科学技術が発展し、村社会が崩壊し、選択肢に囲まれている現代人だって、自らの死は免れない。
私はまだ、正面からこの課題を受け入れることができない。
死、だけではない。
いくら選択肢が増えたところで、一人の人間が送ることができる人生は一度しかないのだ。
運命が決まっていようがいまいが、進んできた時間を戻すことはできない。
私たちは積み重ねてきた時間を受け入れるしかない。
いくら過去を見まいとしても、去年より今年の私は一年歳をとっている。
立派に生きるとはどういうことか。
運命を受け入れるということではないのか。
楢山の山頂で一人、筵の上で念仏を唱えるおりんの姿を思う。

楢山「節」考

ところで本作は「楢山考」ではなく「楢山節考」である。
「節」という言葉が入る理由は読めばすぐ分かる。
村に伝わり、また、村人たちが歌詞を変え楽しむ歌が、15曲ぐらい挟まれている。

楢山祭りが三度来りゃよ
栗の種から花が咲く

といった祭りが年に一度あるという素朴な歌から、

三十すぎてっもおそくはねえぞ
一人ふえれば倍になる

といった若いうちの結婚を諌める歌まで多様である。
本を持たないと思われる村人たちの生活の知恵はこうして伝わっていくのであろう。
歌は物語のアクセントとなっており、それぞれを口ずさんでみても面白い。
物語の最後には、著者が作詞作曲した歌の楽譜までついていた。

読書録

楢山節考
著者:深沢七郎
出版社:新潮社
出版年:昭和39年(平成25年83刷)
楢山節考 (新潮文庫)