読書録 地方生活の日々と読書

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縄文ロマン! 西田正規『人類史のなかの定住革命』 

以前、國分功一郎『暇と退屈の倫理学を読んだときに「定住革命」という言葉を知った。
その言葉やその言葉が示すパラダイムがずっと引っかかっており、この度、「定住革命」の産みの親(たぶん)、西田正規による『人類史のなかの定住革命』を読んだ。
人類学、というのだろうか。
馴染みのない学問分野だ。だからこそ、新鮮で面白い。
昔、家族で行った吉野ヶ里遺跡を思い出した。勾玉をお土産に買ってもらった気がする。あれはどこへ行ったのか。
本作で問題となっている「定住革命」は、吉野ヶ里遺跡が代表する弥生時代より以前の時代、縄文時代を取り上げる。行間に溢れるのは一万年前の人類を巡るロマンである。
目次は以下。

学術文庫版まえがき
まえがき(原本)
第一章 定住革命
第二章 遊動と定住の人類史
第三章 狩猟民の人類史
第四章 中緯度森林帯の定住民
第五章 歴史生態人類学の考え方――ヒトと植物の関係
第六章 鳥浜村の四季
第七章 「ゴミ」が語る縄文の生活
第八章 縄文時代の人間―植物関係――食糧生産の出現過程
第九章 手形動物の頂点に立つ人類
第十章 家族・分配・言語の出現

あとがき(原本)

遊動生活と定住生活

私は家に住んでいる。つまり定住している。
定住以前、人間は遊動していた。特定の家を持たず、時々キャンプ地を変えながら、自然のなかに生きていた。

定住している人間からすると、定住することは「当たり前」に思える。
定住以前の時代の人間を、野蛮で無知だと見下すような感覚すらあるかもしれない。

定住化の過程について、それを支えた経済的基盤は何であったかとのみ問う発想の背景には、遊動生活者が遊動するのは、定住生活の維持に十分な経済力を持たないからであり、だから定住できなかったのだ、という見方が隠されている。  (p16)

しかし著者は問う。
定住は本当に、人類にとって当たり前か?
人類が定住生活を始めたのは一万年前にすぎない。たったの一万年前だ。
それまでの数百万年、私たちの祖先は「小集団、遊動生活、離合集散のシステム、狩猟採集経済」を生存戦略として採用してきたのだ。ホモ・サビエンスという種だって、遊動生活のなかで祖先種から進化した。

とすれば、定住生活は、むしろ遊動生活を維持することが破綻した結果として出現したのだ、という視点が成立する。この視点に立てば、定住化の過程は、人類の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向け再編成した、革命的な出来事であったと評価しなければならない。  (p17)

定住生活は当たり前ではなかった。しかし、我々の祖先はそれまで培ってきた遊動生活を捨て、定住生活を選択する。

コペルニクス的転換

定住生活が当たり前ではなかった。家のある生活も、当たり前ではなかった。
それどころか、定住せざるおえなかったから、私の先祖は仕方なく定住した。
この事実が、とても衝撃的だった。
本書は、この定住のきっかけや農耕との関係について述べていく。
主たる主張は、農耕の結果として定住が行われたのではなく、定住が行われた結果として農耕が始まったのだ、ということである。
この主張の検証の部分も面白かったが、しかし私には、人が進歩したから定住生活を始めた訳ではない、という話の方がずっと面白く感じた。

本、とくにノンフィクションを読んでいて面白いのは、ある知識を得ることで、世界の見方が変わることだ。
見方を変えば、世界は今までとは全く別の様相を見せる。私の生きる世界がぐっと深くなる。まさしく、コペルニクス的転換。

定住生活は決して「当たり前」ではなかった。
この事実を知ったところで、私の生活が変わるわけではない。しかし、例えば、将来の循環型社会を考えるときに、一段広い視野を持って人間と自然と社会の在り方を論じることができるのではないか、と思う。
いや、そもそも実用として活かせなくたっていい。
自分の体に、遊動生活を行っていた祖先と、革命的な試行錯誤を経て定住生活に移行した祖先のDNAが引き継がれているのだ。なかなか愉快で感慨深いではないか。

読書録
『人類史のなかの定住革命』
著者:西田正規
出版社:講談社講談社学術文庫
出版年:2007年

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)