読書録 地方生活の日々と読書

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対詩を読む 四元康祐×田口犬男『対詩 泥の暦』

詩の善し悪しは分からない。
国語の授業はちゃんと聞いていなかったので(授業時間=読書時間と勝手に定義し本ばかり読んでた)、詩の歴史も読み方もよく分からない。
けれども詩っていいなあと思う。

対詩というもの

対詩、という言葉を知った。『対詩 泥の暦』という詩集を読んだのである。
それまでは「対詩」という形式があることさえも知らなかった。
対詩は、二人の人間の間で交わされる詩のことである。大切な手紙のやりとりのようでもある。
対詩とは、詩集の形で全世界へ発信されるものであると同時に、たった一人にあてたメッセージでもある。
ひとりが『眠る男』という詩を送ると、もうひとりが『覚醒』という詩を返す。それの繰り返し。
二人の詩は、時には絡み、時には相手の姿を詩に取り込む。
書簡集を読むように、詩を読んだ。

詩を書く二人の人間とは、四元康祐田口犬男である。現代詩の詩人だ。
先日、四元康祐『妻の右舷』を読み、この人の詩をもっと読みたいと思い手に取ったのが『対詩 泥の暦』であった。不勉強のため、田口犬男という詩人のことはこの詩集ではじめて知った。

詩集に納められた詩は26編である。ひとり13編だ。(詩の数え方は編でいいのか?)
詩を交わしあった時間は3年に及ぶ。それぞれの詩の終わりに、いつ、その詩が生まれたのか記されていた。
3年間で詩は変わるか。私には分からない。でも、3年とはそれなりに重みのある時間だ。
いくつかの詩の終わりには、散文による詩人の現状報告が書かれている。
それを追うと、ひとりの詩人はミュンヘンに住み、仕事をやめようとしていることが分かる。もうひとりの詩人は東京で、目の奇病に侵されている。
詩の行間から見える男の顔は、当たり前だが全く似ていない。共通点は詩を書くということだけ。素敵な共通点だ。

詩を書く人間は、残念ながら私の知り合いにはいない。

文通的な関係性への憧れ

繰り返される主題、というほどでもないが、この詩集には「詩とは何か」という問いが何度か出てくる。
詩とは何か。詩を書くとはどういうことか。
悩み、模索する様子が見える。
そんな様子も含めて、なんだかいいなあと思う。
詩という、言ってしまえば何の生産性もない言葉の羅列のために苦悩する人間がおり、その人間が生み出した詩を受け取りそれにまた詩で答える人間がいる。
いいなあ、こういう関係性。
昔、文通、というものに憧れていた。
見も知らぬ人と文字だけで繋がる。文章に文章で答えあう。ネットの不特定多数ではダメなのだ。やりとりもメールやラインではなくて、手書きの手紙がよい。
対詩を行う彼らには、大切な文通相手がいる人に対するような羨ましさを感じるのである。いや、この詩人たちだって、実際は詩をメールでやり取りしているのかもしれないのだけど。
どちらにせよ、現代では簡単そうにみえて、なかなか手に入らない関係性だと思う。
もし、このような関係性を手に入れることができたら。
辛い世を生きるには小さすぎる慰めであろうか。それとも、絶望を生き延びるための執念となるのだろうか。

読書録

『対詩 泥の暦』
著者:四元康祐 田口犬男
出版社:思潮社
出版年:2008年

対詩 泥の暦

本には付録のリーフレットがついてました。
内容は詩人二人の対談。二段組み、23ページで、読み応えあります。