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アメリカの古典不倫小説『緋文字』ホーソーン【読書感想】

 光文社古典新訳文庫から出た小川高義訳『緋文字』(ホーソーン著)を手にとった。この文庫本には、小説には珍しい「訳者まえがき」がついている。

ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』は、アメリカ文学史にあって定番中の定番というべき作品である。多くのアメリカ人にとっては学校で読まされる課題図書といったイメージがあるだろう。  (p9)

 なるほど日本で言えば夏目漱石『こころ』森鴎外舞姫のようなものだろうか。原書の初版が出たのは1850年だそうだから、幕末ごろに書かれた物語なのでちょっと違うかもしれない。また、物語の舞台となっているのは、アメリカへの植民がはじまってすぐの時代、1642-1649年あたりらしい。手元の年表によると、徳川三代将軍家光の時代だ。鎖国をはじめたぐらいのことである。

 教科書的な100年以上前に書かれた物語とのことで少し身構えた。面白く読めるだろうか。
 だが、心配は無用だった。面白い。訳も、新訳だからだろうか読みやすく、すらすらと入ってくる。
 確かに、教科書的な読み込みがしやすそうな物語ではある。つまりこの登場人物は何々を象徴していて、この場所はつまり云々である、みたいな。アメリカでは解説書が売っているらしい。すごい。国語の授業的には厳正なる宗教心や清教徒の歴史について考えながら読むのが筋だろうが、難しいことは考えないで以下の文章は書く。難しいことを抜きにしても十分に面白い。
 扱っているモチーフは古今東西の人間に普遍的な事象である。
 不倫。三角関係。不義の子。
 あれ、『こころ』や『舞姫』にも通じるものがあるような、ないような……

アメリカの古典不倫小説

 不倫小説、と言っても、この物語には不倫自体は語られない。男と女、どちらからそのような関係を望んだのか、何故、そのような関係になったのか。これらの過去は明かされない。
 物語のテーマは「不倫」という「罪」をどう贖うか、その「罪」は赦されるのか、といったことである。
 それらの問う物語が、厳格な清教徒の町であった、入植直後のニューイングランドを背景に進んでいく。町では宗教=法律だった。妻の不貞は、場合によっては絞首刑になるほどの重罪だった。

 主人公へスターは不義の子を産む。彼女は絞首刑は免れたが、刑台の上で町中の人の前で晒し者となった。その後も、住む場所は町から外れた辺境の地に、その胸には常に「A」の緋文字の刺繍をつけていなければならないこととなる。
 しかし、彼女は、どのような仕打ちを課せられても、決して、相手の男の名を言わなかった。へスターは一人で罰を受け、世間に後ろ指を指されながらも幼子と共に生きていく。

読んだ感想。ネタばれ注意!

 時代が違う、といえば時代が違う。その背景となる宗教心も違う。それでも、どこか現代の日本に通じるものがある物語である。不倫は文化だとの説もあるが、一般的に、不倫は悪である。自分もしたくないし、相手にもされたくない。
 でも、その悪は本当に悪なのだろうか。
 この物語は、罪に対する厳罰への疑問を投げかける。
 自然な感情によって結ばれた男女は、ただ、一方が結婚しているという外的な条件によって、悪となる。そして、その悪と共に背負わねばならない罪は、一生をかけて償わなければいけない。
 「罰」という制度と人間の心や世間の風の変わりやすさ――時間による感情の変化や記憶の風化――は、どこか相容れないものがあるのかもしれない。この物語は人間が獲得した「理性」と人間がもつ本来の「自然」の拮抗とも読むことができるだろう。

 ただ私はそれでもやはり、悪いことは悪いんじゃないのかなとも思った。
 この物語を読みながら、妻に不倫された夫、ロジャー・チリングワースが不憫すぎないか、と思った。物語のなかで、ロジャーは復讐の悪魔とかす。へスターは元夫を一方的に、悪魔のようだと恐れる。自分は悪魔のような男に騙されてたって。ちょっとそれは酷いんじゃないのかな。
 へスターの、復讐を生きがいにするロジャー・チリングワースへの恐れも分かる。彼の復讐に依存する生き方の不毛さも分かる。でも、やった方の七年とやられた方の七年は当然違うだろうし、ロジャー・チリングワースの生き方に対してへスターが色々といえる立場じゃないだろう。
 それに問題を起こした張本人であるディムズデール牧師。私はまったくもって彼には同情しない。個人的に一番むかついたのは以下のくだり。些細な部分で、たぶん物語の本質には関係ないのだけれど。
 
 第17章。森のなかでへスターとディムズデール牧師が会話するシーンである。がへスターがロジャーが元夫であり、復讐心をもっていることを7年間黙っていたことに対して。

「どうかお許しを」へスターは何度でも言った。「こわい顔をしないでください。お許しを」
「まあ、よかろう」ようやく牧師が口をきいた。  (p319)

 いや、お前、怒れる立場じゃないだろう。その後の描写によると、怒っているというよりも悲しんでるらしいけど、もっと言い方ってもんがあるんじゃなかろうか。その当時の男女の地位としては普通だったのだろうか。でもやっぱり、ディムズデール牧師には同情できない。もちろん、どちらから手を出したのかという点が分からないので、場合によっては彼にも同情の余地があるのかもしれないが。

 とはいえ、ディムズデール牧師が罪を大衆の前で中途半端に告白して死ぬ、という物語のクライマックスはどうもすっきりしない。彼は罪を償ったのだろうか。彼は制度による罰は受けていない。しかし彼の良心や宗教心は彼を責め続けた。彼は罪を償わずに、死に逃げたのだろうか。だとすれば、その死は救いであったのか。彼は生に逃げることもできたのに。
 ここに書かれているのは人間の愚かさだ。
 愚かな人間が、愚かな結果を招いた物語、とも言えるかもしれない。最終的には、ロジャー・チリングワースもへスターも死に、物語は終わる。
 救いは、不義の子のパールである。
 愚かな男を父にもち、罪を背負った女を母にもった子どもは、ニューイングランドを離れヨーロッパのどこかで幸せに暮したとの暗示で物語は終わる。どんな状況で生まれたって子どもに罪はないのである。

緋文字 (光文社古典新訳文庫)