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読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

時は21世紀。『それでも、読書をやめない理由』デヴィッド・L・ユーリン(柏書房)

読んだ本 エッセイ

ブログを書く人間にはブログ論好きも多いようだ。
という私もそのようなエントリーがあれば、ついつい読んでしまう。

本を読むことが三度の飯と睡眠並みに好きな私は読書論も大好きで、本に関わるエッセイや新書は好きなジャンルの一つである。
先日、『それでも、読書をやめない理由』というド直球なタイトルを本棚見つけた。本の本だ。手に取った。原題は『THE LOST ART OF READING why books Matter in a Distracted time』。うん、原題もいいけど、邦訳が好きだ。
内容は、軽い文体なので軽い読書エッセイかと思えば、意外に骨太な読書論であった。ちょっと分かりにくいけど面白い。

プロローグ 「文学はしんだ」?
第一章 物語の中の真実
第二章 この騒々しい世界で
第三章 もうひとつの時間、そして記憶
第四章 文学という鏡
第五章 本をほんたらしめるもの
エピローグ それでも、私は本を読む

『それでも、読書をやめない理由』は?

Q:「それでも、読書をやめない理由」の「それ」は何を指すのか説明しなさい。

国語のテスト風の問いを立て、それに答えてみた。

A:「それ」とは、「テクノロジー、特にIT技術の発達により、情報に溢れる現代という時代」を指す。

この本では、様々な情報メディアが発達した現代という時代でも、読書をやめない理由を考える。
現代という時代のなかで、「文学は死んだ」のか。
著者のデヴィッド・L・ユーリンは、作家・読書家・文芸評論家であり、大学で創作も教えている。また、読書家ではない現代っ子の息子を持つ父でもある。
プロローグで、著者は中学生の息子に「だから、もう、誰も本なんか読まないんだ」と言われたことを書く。文学に浸かって生ききた著者は、息子の言葉に反感を覚えるが、しかし、その言葉に納得する部分も認めるのだった。彼は言う。

それは、文学はかつてのような影響を持っていない、いや、持ちえない、というものだ。  (p10)

かつて本は今よりももっと大きな力をもっていた。テレビもインターネットもなかったから。昔はよかった、と技術の進歩を認めずに嘆くのは筋違いだ。何故なら、庶民が本を読めるようになったのも、グーテンベルクによる印刷技術の発明があってこそ、つまり、読書という行為も人類の技術の進歩の結果であるからだ。印刷が行われるようになってから、まだ500年程しかたっていない。
著者は、インターネット等の技術や技術の進歩によりもたらされた恩恵を認める。しかし彼は手放しで現状を良しとしない。

ところが、あるときふと、本であふれたアパートで気づいたのだ。もはや自分の中に本を読むために必要な静寂を見いだせないということに。  (p45)

現代のIT社会、情報社会は「ノイズが多すぎる」のだ。ネットワークが張り巡らされ、深く考えるよりも瞬時に反応することが求められる社会。SNSや次々流れてくる新しい情報に気を取られ読書に集中できない現状。読書好きな自分が読書に集中できないもどかしさ。

情報化された社会は、瞬間の連続である。そこでは次々と新しい情報を得て、消費することが求められる。立ち止まって考える人間は、馬鹿でのろまな人間であるとみなされる。新たな情報を得ることは、確かに、快楽を伴う。一瞬の好奇心が一瞬で満たされる快感。魅力的なブログ記事のタイトルは思わずクリックしてしまう。そして読んで満足し、スターなりブクマをつけて、忘れてしまう。忘れたってかまわない。なぜなら、必要ならばまた読み返せばよいのだから。だから、内面には何も残らない。だからこそ、また、新たな快感を求め、新しい情報を見つけようとネットの海に沈んでいく。
そこに自分の内面と向き合う余裕は残されていない。

本を読むとはどういうことか。

本を読むのには静寂が必要だ、と著者は言う。本を読むとき私たちは、ただ文章を追っているのではない。
自分の内面と向き合っているのだ。本を読みながら、私たちは想像する。共感する。自らの頭で考える。能動的な行為としての読書である。その結果、私たちは本の世界に没頭することができる。本の世界に没頭するとは、複数の時間を生きることである。私たちが物語と向き合う時間、物語が進行する時間、作者や登場人物の感じる時間。そしてその時間のなかで、読者は作者や登場人物たちと寄り添うことができる。別の人間として生きることができる。

この別の時間を生きる体験は、IT社会で次々と新しい情報を得ていくことの正反対の行為である。

そして、だからこそ情報過多の社会で、自分の時間を取り戻す手段として、読書は有用である。
本は私たちに注意力を向けることを求める。余計な情報をシャットダウンしなければ、本の世界は楽しめない。
物語を味わうには時間がかかるのだ。深い内面世界に降り立ってこそ、物語の本領は発揮されるのだ。そしてその過程で、読者はいやがおうにも自分自身と対面することになる。そしてそれらの経験が、私たちの人生を形作っていくのだ。

無限と有限

情報社会と本の世界、という二項対立について読み進めながら、無限性と有限性について考えた。
人生は有限である。そして本も有限である。いくら面白い物語でも、必ず、最後のページがある。
しかし、情報化社会に蓄積される情報は無限である。無限にある情報をいくら追いかけていたところできりがない。

情報を受け取る側の人間の記憶容量には限りがあるし、情報を消化するのにも時間がかかる。人間は生物なのだ。生物学的な限界がある。
生物である人間にとって、多くの情報を得ることに価値はないのである。得られた情報をどのように自らの人生の物語に組み込んでいくのか。大切なことはそこである。
そして著者の言うとおり、それらの自らの内面と向き合い自分を形作る過程には、静寂が必要なのだろう。
静寂を手に入れる、情報の濁流から避難する、無限にある情報の消化に有限の人生の大半を使ってしまわないように自制するためには、やはり読書は最適な選択肢の一つであろうと思う。

自分の生活を振り返ってみる。最近は暇があればネットばかりみてる。自省!

読書録

『それでも、読書をやめない理由』
著者:デヴィット・L・コーリン
訳者:井上里
出版社:柏書房
出版年:2012年

それでも、読書をやめない理由

カバーデザインも素敵。