読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

自薦短編集が出たそうな。大江健三郎『他人の足』

心を失うと書いて「忙」しい。
最近ちょっと忙しかった。忙しければ忙しいほど心の肥やしたる本成分が枯渇する。
珍しいことに本を読む時間すら取れなかった。寝る前の読書タイムすら睡眠時間の確保に回してしまった。
(まあ学生なので参考書や論文は読んでいる。が残念なことに、養分になっている気がしない)
小説読みたい!図書館行きたい!kindleセール覗きたい!

ちなみにこんなこと書いてる場合でもない。
でも人間の集中力には限りがあるのだからしょうがない。癒しの時間。

同じく癒しの時間としては食事の時間がある。忙しい忙しい言っても三食を抜くほど忙しくはないのだ。
昼食を食べる間、新聞を読んでいた。
と、大江健三郎の文字。記事に目を通す。自薦短編集が出ているらしい。岩波文庫より。
記事には「決定版」の文字が躍る。処女作『奇妙な仕事』「遺体洗いのアルバイト」の噂の出所(?)『死者の奢り』も入っている。23編入りというから大したものだ。買った人の個人ブログを見るとだいぶ厚いらしい。時間ができたらここらへんも本屋へ行って確かめたい。

私は大江健三郎の良い読者ではない。というかほとんど読んだことがない。有名な作家なのでいつか読もうと後回しにしていた。今の忙しい状況を招いたのもやるべきことを後回しにしたからだ。架空の積読本が溜まっていく。
手元にあるのは新潮文庫の短編集『死者の奢り・飼育』のみだ。
読書エッセイか何かで『飼育』が絶賛されていたことを思い出し購入したのだった。
新しい短編集にはこの文庫本に収録されている作品も再録されるらしい。しかも改訂されて。
特に『他人の足』という作品の主人公が19歳から16歳に改変されたというところは、読んで驚いた。主人公の年齢を変えるというのはよっぽどのことではないか。19歳と16歳では見える世界も随分違った気がする。しかもこの『他人の足』という作品は、年齢がそれなりに重要な設定を占めている。

新潮文庫で読む『他人の足』

戦後日本。まだ結核が恐ろしい時代だった頃。結核由来の脊椎カリエスという病気にかかるということは、すなわち、歩けなくなる可能性があるということだった。主人公は19歳。脊椎カリエス専用の病棟に入院している。そこで寝たきりだった。しかし彼は不幸ではなかった。病棟という狭い内側の世界でまどろんでいればよいだけなのだから。
昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が彼を待っている。

僕らは、粘着質の厚い壁の中に、おとなしく暮していた。僕らの生活は、外部から完全に遮断されてい、不思議な監禁状態にいたのに、決して僕らは、脱走を企てたり、外部の情報を聞きこむことに熱中したりしなかった。僕らには外部がなかったのだといっていい。壁の中で、充実して、陽気に暮していた。

しかし彼がいるのは未成年者病棟である。19歳の彼は、来年には成人病棟へと移されてしまう。
時間の止まってしまった病棟のなかで、それでも、確実に未来はやってくる。その未来が示すのは心地よい世界の終り。物語にはこのリミットによる終末の予感が漂っている。

だからこそ年齢は重要な要素なのであるように思う。
うん、改変版も読みたくなってきた。時代の変化を反映してとか月並みな理由なのか。まさか。

物語自体は外の世界を知る両足にギブスをつけた青年が、内なる世界である未成年者病棟に新たに入院してくるところから動き出す。青年の入院により、止まっていたはずの時間が息吹を吹き返す。彼は内と外の世界をつなぐ扉を開いたのだった。境界が歪み外の世界と内の世界が混じりある。
主人公はその変化に戸惑い、しかし、そこに一筋の希望を見出す。物語にはその過程が、彼らの変化が丁寧に書かれている。

しかし著者は残酷だ。この物語は良くある「いい話」では終わらない。
ヒントは、物語の題名。『他人の足』。「自分の足」ではないのだ。
著者は人間の本性をこれでもかと見せつける。偽善、差別逆差別、自虐、ムラ意識……
しない善よりする偽善、ただし、偽善の仮面は剥がしてはいけない。自分でも驚くほどの本性が自分のなかには潜んでいるかもしれないから。
そんなことをぼんやりと思った。恐ろしい小説だ。
そしてそんな毒を含むからこそ小説は面白い。

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

↑読んだ新潮文庫はこれ