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読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

吉野源三郎『きみたちはどう生きるか』

読んだ本

以前から気になっていた本を読んだ。
『君たちはどう生きるか』という題名に惹かれた。それ未だに「私はどう生きるべきだろうか」という青臭い問いが私の根幹をなしているからだろうと思う。

本自体の存在はだいぶ前から知っていたが、これまで手に取らなかったのは「近所に住む叔父さんが、中学生のコペル君に会話や文章を通して説教する」という形式だったからだ。小説の形態をとった自己啓発本は数多あるが、それらの本の小説部分を面白いと思ったためしがない。小説というか物語形式にする意味があるのだろうか、と思うのだが、新しい本が出ているところを見ると需要はあるのだろうな。
だが、風呂用本を買おうと寄ったブックオフで「250円以上の本は250円セール」をやっていたのでつい買ってしまった。(ちなみに風呂用本には米原万里のエッセイを購入)

1930年代を生きる中学生へ向けた本

本書は1937年に出版された。1930年代というのは戦争やそれに伴う軍国主義が日に日に深刻になっていった時代であった。満州事変は1931年。1937年は盧溝橋事件の年だ。言論への弾圧も強まっていた中での出版だったらしい。

軍国主義全体主義という背景にも関わらず、本書の説く「生き方」は現代にも十分すぎるほど通用する。
それはこの本の説く倫理が私たちに想像力を要求しているからだ。軍国主義全体主義は個人の想像力を抑制する。自分の国は特別だ、自分の国には他国を抑圧する権利がある、なんて言論は少し想像力を働かし自分を別の立場に置いてみればすぐに誤りであることが分かるだろう。

目次は以下。

まえがき
一、へんな経験 
  ものの見方について(おじさんのノート)
二、勇ましき友
  真実の経験について(おじさんのノート)
三、ニュートンの林檎と粉ミルク
  人間の結びつきについて(おじさんのノート)
四、貧しき友
  人間であるからには(おじさんのノート)
五、ナポレオンと四人の少年
  偉大な人間とはどんな人か(おじさんのノート)
六、雪の日の出来事
七、石段の思い出
  人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて(おじさんのノート)
八、凱旋
九、水仙の芽とガンダーラの仏像
十、春の朝
 作品について
 『君たちはどう生きるか』を巡る回想――吉野さんの霊にささげる――

本文だけではなく、丸山真男の書いた『『君たちはどう生きるか』を巡る回想』も面白い。実はこれは雑誌に掲載された吉野源三郎に向けた弔辞なのだが、同時に本書の書評にもなっている。一個人のいいかげんなブログなんかよりもよっぽど質のいい書評であり、私が書くことなんて何もないじゃんと思いながら読んだ。当たり前か。

特に「人生いかに生くべきか、という倫理だけではなくて、社会科学的な認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている」という指摘が面白い。「社会科学的認識」なんて言葉は本文にはまったく出てこないが、「社会科学的認識」とは「物の見方」のこと(と私は解釈)。とすれば「社会科学的認識」はやはり本書の根幹である。

どれだけ大切かといえばこの本の主人公の渾名が「コペル君」であることからも分かる。
コペル君という渾名の由来は、本書の一番はじめのエピソードで明かされる。
コペル君はある日デパートの屋上から、雨に濡れる東京の町を見下ろし「妙な気持ち」に襲われる。

しかし、コペル君は、どこか自分の知らないところで、じっと自分を見ている眼があるような気がしてなりませんした。その眼に映っている自分の姿まで想像されました。――遠く鼠色に煙っている七階建てのビルディング、その屋上に立っている小さな、小さな姿!  (p18)

自分を中心とした見方から、自分を辺境と置く見方へ。自分は何十億という人間の一人にすぎない人間という自覚。
叔父さんは言う。それはコペルニクス的転換だねと。

この話を本書の一番はじめに書いたという意味は大きいと思う。
読み進めると膨大な歴史の流れの中の一人でしかないという話も出てくるが、自分は特別な人間ではない、そもそも特別な人間なんていないという認識は私たちの社会の根幹をなすべき思想であるはずだ。それを「中学生」(コペル君はこの時旧制中学の1年生)という自意識過剰な年代に説く。
平等思想というのは、人間はみな素晴らしいのだから大切にしないといけない、といった「人間の偉さ」に基点を置くものではなく、人間なんて誰でもそう大差無いんだから、といった「人間なんて所詮人間でしかない」所から出発したものなのかもしれない。

戦前の空気

正式な楽しみ方ではないかもしれないが、この本に詰まっている戦前の日本の空気を味わうのも面白い。
そもそもこの本は旧制中学生たちに向けて書かれた本である。一読して中学生には難しいのではないかとも思ったが、逆にいえば旧制中学に進学する学生に求められていた学力水準が高かったということだろう。
文の合間からはコペル君やその学友たちの生活水準の高さや一億総中流になる以前に存在していた階級差が見え隠れする。

大きな銀行の重役だったお父さんがなくなったのち、コペル君の一家は、それまで住んでいた旧市内の邸宅から、郊外の小ぢんまりした家に引っ越しました。召使の数もへらして、お母さんとコペル君の外には、ばあやと女中が一人、すべてで四人の暮しになりました。  (p7)

学友たちの親は会社の重役や国の役人や高位の軍人である。なんたってコペル君は十五になるまで庶民の暮す商店街を見たこともなかったし、鯛焼きを食べたこともなかった。
きっとこの本もそのような生活水準のなかに生きる学生に向けて書かれたのだろう。
だから金で人を判断してはいけないという話と共にノブレス・オブリージュ的な話も出てくる。

個人的に差さった言葉たち

最後に個人的に痛いところを突かれたと思った言葉の紹介を。

金の有無≠人間の尊厳。

僕たちも、人間であるからには、たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と考えたりしないように、――また、たとえ豊かな暮らしをしたからといって、それで自分を何か偉いもののように考えたりしないように、いつでも、自分の人間としての値打にしっかりと目をつけて生きてゆかなければいけない。貧しいことに引け目を感じるようなうちは、まだまだ人間としてダメなんだ。   (p130)

勇気はあるか。

――君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおい知ってくるだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。   (p195)

著者は軍法会議にかけられたこともあるらしい。解説でそれを知り言葉がより重く感じられた。

読書録

『君たちはどう生きるべきか』
著者:吉野源三郎
出版社:岩波書店(岩波文庫 青一五八‐一)
出版年:1982年初刷(2012年67刷を購入。地味な本なのに67刷ってすごい)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

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