読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

阿部公房『他人の顔』

馬鹿な男の馬鹿みたいな話。

 今の私が、阿部公房の長編『他人の顔』を一言で紹介するとこのような言葉になった。でも同時に、そう言いきっていいのだろうか、とのもやもやした不安がよぎる。私はこの物語を正確に読み取れているだろうか。確証がない。
 これは再読を、しっかりと読み込まなければと思う。
 いつか――私がもっと大人になり人生というものを多少なりともよく知ることができた時が来たならば――是非、もう一度読みたいと思う。この『他人の顔』はそういう種類の物語だ。
 以下、ネタばれ注意。阿部公房はジャンルとしては何になるのだろうか。SF?なんにせよ、前知識なしに読むほうが楽しめると思う。

 この物語は一人の男の手記の形をとっている。主人公であるその手記の作者には顔がない。業務中の事故で顔面を火傷し、そこは「蛭の巣」のようなケロイドと化した。彼は顔面に包帯を巻き生活を続けるが、顔面包帯男の彼は異形である。もはや普通に他人と接することはできない。夫婦生活さえ、以前のようにはいかない。主人公は自らの顔について悩み、妻はそんな主人公を気遣う。そしてその気遣いがまた主人公に自分の顔が普通ではないことを自覚させる。彼は家庭内においてさえ、孤独だった。
 そんな孤独な日々を送るあるとき、彼は自らの顔を人間の皮膚そっくりな仮面で覆うことを思いつく。
 手記は仮面の製作過程を細やかに追い、そして「他人の顔」を手に入れた彼はある計画を実行に移すべく行動を開始する。

 主人公の悩みの根は深い。それはそうだろう。自分が彼の立場だったら仕事にも行かず引きこもるかもしれない。
 でもどうしても彼の姿が愚かしく見えてしまう。それは手記を読んだ妻が(そう、主人公の手記は妻にあてたものだった。そして手記を読んだ妻は、彼に手紙を残す)、主人公に指摘したとおり、その手記がやたら大げさで回りくどく言い訳じみているからかもしれないし、何よりも仮面を手にいれた彼がしようとしたことが「他人の顔」で妻を犯すということだからかもしれない。
 なんでそういう結論になるのかなあと思わずため息をついてしまう。そういう結論にしかなりようがない、という屁理屈はこの手記に書かれているのだが。というか手記の目的がその屁理屈を述べることなのだけれど。それでもなんだかなあという気持ちはぬぐえない。

もしもインターネットがあったなら・・・・・・

 今の段階で思ったことを簡単に書いておく。

 一つは、もし主人公が生きた時代にインターネットがあったのならば、ということである。彼は手記の中で顔と匿名性、アイデンティティの関係について何度か述べている。そしてその関係がこの物語のテーマであるといえる。だからこそ、顔が見えないインターネットでのやりとり、特に匿名性の高い掲示板などのシステムがこれほど身近になった世界に彼が生きていたのならば、物語は大きく変わったのではないか。顔のもつ意味が極限まで薄められた世界、それがインターネットの世界だろう。私がどんな顔をしていようと――あるいは顔を持っていようがいまいが――このブログには関係がない。このような世界を彼が持っていれば、彼の悩みはもっと軽減されたのではないかと思うし、仮面は作るにしろ、妻へのアプローチ方法は変わったのではないのだろうか。

 それから、私は『他人の顔』のあと、かのベストセラー『嫌われる勇気』を読んだのだが、この『嫌われる勇気』こそ主人公に読んで欲しいと思った。『嫌われる勇気』はアドラー心理学についての本であるが、アドラー心理学では物事の見方として「~があったから今はこうだ」という原因説ではなく、「~したいから今はこうだ」という目的説をとる。この目的説でみると主人公の行動そして世界はどうなるだろうか。そんなことを思わず考えてしまった。ほかにも、彼は「交友のタスク」でつまずいているのだな、とか思ってみたり。読み合わせが悪かったのかもしれないな、とは思う。

 どちらにしろいつかまた読みたいなと思う。きっとそのときには別の感想を抱くだろうし、そのときにはまたこのブログに書きたい。

読書録

『他人の顔』
著者:阿部公房
出版社:新潮社

他人の顔 (新潮文庫)


阿部公房の新潮文庫版の表紙はどれも素敵。並べておいておきたくなる。

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