信号機の恋物語『シグナルとシグナレス』
好きなバンドの好きな歌詞に「シグナルとシグナレス」という一節があった。
シグナルとシグナレス 始発電車 自殺 唄うたいと商業主義
愛こそすべて (by amazarashi『ラブソング』)
ある日思い立って、その言葉を検索窓に打ち込んだ。そして出てきたのは、宮沢賢治の童話だった。青空文庫にあったので、会社の昼休みに読んでみた。
宮沢賢治の恋愛童話
『シグナルとシグナレス』、読んでみると、宮沢賢治には珍しく恋愛を扱ったものだった。
彼氏は最新型の金属製の本線つきの信号機、シグナル。
彼女は古い木製の軽便鉄道沿線の信号機、シグナレス。
身分の違う恋である。純愛ものだ。彼らは鉄道の沿線に立つ信号機。彼らにできることは、相手を思い、言葉を交わすことだけ。東北に吹き荒れる風雪にじっと耐えながら。
ちゃんと、恋の邪魔者(電信柱)や影ながらの応援者(倉庫)も出てくるこの物語。しかし、実を言うといまいち没頭できなかった。どうしてかといえば、シグナル、シグナレス、彼らの姿が頭に浮かんでこなかったからだ。旧式の鉄道の信号機。いまやなかなかお目にかからない物たちだ。
読後、画像検索をした。ああ、こういう姿だったのかと思った。登場人物たちの形が文を読んでもまったく頭に浮かんでこないのは、童話では辛い・・・・・・
少し前、宮沢賢治の詩について書かれたエッセイ集(池澤夏樹『言葉の流星群』)を読んだのだが、その中に宮沢賢治が海をはじめて見たときのことが書いてあった。初めて海を見たのは、修学旅行でだったという。その事実が私の中で小さな棘となっている。
今では、テレビさえつければ、海なんていくらでもみることができる。
私はテレビのない時代に海をはじめて見た人の感動をうまく想像することができない。
想像力の形が、そして現実から受ける感動の質が、宮沢賢治の生きた時代の人々と、情報が溢れた今に生きる私との間で異なっているのかもしれない。
ときどき、ネットもスマホもない世界で生きたいと思う。もう二度と、そんな世界に生きることは不可能なのだろうが。