読書録 地方生活の日々と読書

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移人称小説、だって。

 昨日、なんとなしに新聞を読んでいたら「移人称小説」なる言葉を見つけた。以下、日本経済新聞2015年8月22日の40ページを読んだ感想などなど。

移人称小説?

 不勉強なため、その単語を知ったのはそのときがはじめてだった。とっさに移民をテーマにした小説のことかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。

 移人称小説とは「作品内で人称が移動する小説」のことらしい。例として、藤野可織『爪と目』の一節がひかれている。未読なため孫引き。

 はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。

 すごい。わけが分からない。でも、わけが分からない小説はわくわくする。
 

 「爪と目」では3歳の「わたし」が知るはずもない義母の「あなた」の過去や生活の細部を語る。「現代は他人とものの見方が異なることが前提となっているように思う」と藤野氏。だから「(小説で視点を固定する)一人称も三人称の語りも信用できない。それでも語るため、いろんな人称や時制を試みた」。

 人称の問題は、小説の創作者のなかでこれまでに何度も話題となってきたことだろう。しかし一読者としては、読んで面白ければそれでよいと思う。小説はすべての創作形態の中でもっとも自由である、と誰かが何かで書いていた。詩のように定型に縛られることも、戯曲のように上映時間に規定されることもないから、と。詩でも戯曲でもエッセイでもないものは、すべて小説である、と。
 そう、小説にルールはないのだ。
 読みにくくてつまらなくなってしまうのは問題外だが、今までにない形の小説があれば読んでみたいと思う。


 ちょうど今、ミラン・クンデラ『生は彼方に』を読んでいる。三人称にときどき一人称が混じっているだけではなく、著者の感想やら突っ込みやらが時々顔を覗かせる、とてもフリーダムな小説である。いきなりランボーをはじめとする著名な詩人たちの人生に対するコメントだけの章が挟まれていたりもする。
 読みにくくないのかって?それが滅法おもしろいのだ。ミラン・クンデラの著書を読むたびに、多層的な世界に迷い込んだ気分になる。著者や私達のいる現実と、物語の主人公ヤロミールたちの生きる世界を、ページをめくるたびにトリップする独特な感覚。癖になる。
 今日は日曜日。図書館に行かなければいけないという用事はあるが、もう少しこの物語を読み進めようと思う。

dokusyotyu.hatenablog.com

『不滅』も型破りでおもしろい小説でした。