読書録 地方生活の日々と読書

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映画『屍者の帝国』観て来ました!

 題名のとおり。映画館へといってきました。

 観終わった感想を一言で言えば

「あれ、こんな話だっけ?」

 という感じ。原作とは、良くも悪くも物語が大きく変わっていた。原作よりも好きかもしれない、というのが自分としての感想。物語の要素を単純化することにより、少なくとも分かりやすくなっていると思う。
 祝日ということもあり、映画館は満員だったが、上演後聞こえてくるおしゃべりを聞くと「これ、よく分からないんじゃないか」という感想が多かった印象。でも、なんだかんだ、周りの人も原作読んでから映画館来ているような雰囲気。
今回だけかもしれないが、客層は若い人中心。カップルで来ている人よりも友達同士で来ている人が多かった。男性グループも女性グループもいる。伊藤計劃の映画を一緒に観てくれる友人がいるなんてうらやましい。

 内容については・・・・・・以下、ネタばれあるかも。

そして映画が始まった。

 舞台の幕開けはロンドンから。が、冒頭からして原作とは違います。そしてすぐにムンバイへと飛ぶ。全体として原作の要素がコンパクトに取捨選択されているという印象。が、キーワードはしっかりと抑えられており、原作にあった19世紀文学へのオマージュがしっかりと残っていたのが個人的にはとても嬉しい。
 もっとも変わっていたのは、主人公ワトソンとフライデーの関係性。

 フライデー?
 原作では、脇役だったよね?

 映画ではフライデーが、ワトソンの親友役へと昇格している。そして物語を動かす大きな歯車へとなっている。
 死んだ親友フライデーとの約束が、ワトソンを動かす動機となっているのだ。ワトソンは、亡くなったフライデーを屍者化することにより、フライデーとの夢だった「魂とは何か」を解明しようとする。
 
 繰り返される「魂とはどこにあるのか」という問い。
 映画は答える。
 屍者と生者を分ける23グラムの差は「言語」だと。

 ことば。魂とは「言葉」だ。


 今、『虐殺器官』を読んでいる。虐殺器官のキーワード、それも言葉だった。
 伊藤計劃という早世の天才は、現世を生きる私達にいくつかの物語を残した。
 彼が残した言葉は、多くの人々の元へと届き、多くの人の想像力を通し、いまやスクリーン上に形を変えて映しだされている。
 彼の描いたSFの世界は言葉の危険性を顕在化させた。きっと作家の感性は、普通なら見過ごしてしまう言葉のもつ危険性に敏感に反応していたのだろう。でも危険であると同時に、世界を変える力もある。そのことにも彼は、きっと、気づいていたのだろう。
 ああ、そうか、だからフライデーに与えられた役割は「記述」だったのか。
 人は世界を言葉に変える能力を持つ生き物なのだ。