読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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本を読む気力と衝動買い

 先日、本を読む気力もないという愚痴記事を書いた。

dokusyotyu.hatenablog.com

 嘘を書いたつもりは全くないのだが、記事を書いた数時間後、私は本屋にいた。そして一冊の本を買った。転職についての本を買おうと思ったのだ。私は読書が行動に先んじる人間であり、何かをはじめる際にはまず知識からというタイプである。 だから将来に悩み読書に手がつかないという状態と、その状況を打破したいが為に本を手にするという行為は、自分の中では矛盾はない。

 のだが。問題はその後、本屋から帰った後のことである。気がつけばインターネットを開き、電子書籍の衝動買いをしていた。
私はストレスが溜まると衝動買いをする人間でもある。本棚には、衝動的に買ったもののなんとなく読むタイミングを逃し、そのままになっていう本が積まれている。本を買いたいと衝動的に思うタイミングと本を読みたいタイミングは違うのだ。ストレスが溜まり、現実逃避がしたいが為に本を読むことももちろんあるが、私の読書はあくまで趣味であるので、リラックスし気力が充実したときにこそ読書が進む。
 今回買ってしまった数冊は、もちろんいつかは読むつもりであるが、今のところ数ページを試しに読んでみただけだ。

 本を読む気力もないのに本を買ってしまったことは、今までの人生でも度々あった。この症状は、あまり状態が良くないパラメータである。

dokusyotyu.hatenablog.com

 しかし積んでしまった人生経験により、この状態が決して長く続くものではないことも知っている。自分は飽きっぽく、気分屋であり、落ち込み続けることも不安に苛まれ続けることもできないのだ。客観的な状況は、先日から何一つ変わっていないが、自分の心の奥底に健全な読書欲を感じる。
ああ、面白いミステリーが読みたい。徹夜したくなるほど、面白い本が読みたい。

本を読む気力

出先で、ふと時間が空いてしまった。
こんな時にカバンに文庫本でも入っていればよかったのだが、あいにく持っていない。外に出るときはたいてい本を持ち歩いているのだけれど、このところ本を読む気力がなく、今朝は準備する際に本を持っていくことを思いつきもしなかった。

仕事が忙しく、なおかつ、転職のことも考えないといけず、プライベートでもパッとしない日が続いている。
現実世界でいっぱいいっぱいで、現実と地続きであるような本を読む気には全くなれず、かといって、SFやファンタジー小説にも手は伸びない。かといって活字中毒が治ったわけではないので、もっぱらインターネットを眺めて時間を潰している。夜の読書に充てていた時間が、そのままダラダラと、インターネットの中の現実世界と地続きのはずなのに他人事感が溢れている文章群を読む時間になっている。ほんと無意味な時間である。

パッとしない日常が続いている原因は、先が見通せないからであろう。何が正解か不正解か分からない。決断が下せぬまま時間だけが過ぎていく焦り。目に見えないリミットがあるのではないか、それを知らず知らずのうちに過ぎてしまうのではないかという不安。
多くのことは望んでいないと思う。子供が欲しい。定年まで働き続けたい。特別なことではないと思う。しかし、それらを両立させるための選択肢は、地方の街には思った以上に少なくて、二十代後半の私にはもう時間がない。

ほんとうは、こんなときにこそ、本を開く余裕をもつべきなのだろうけど。歳をとればとるほど、自分の未熟さに直面し、冷静でいられない。

再転職を考えはじめた。

 今の職場に転職し、早10ヶ月。なのだが、諸事情により、再度の転職を考えている。働きたくないわけではないし、むしろ一生働き続けたく思い一生勤められる職場を探しているのだが、転職活動は気が進まない。それなら今の職場で頑張れよ、と言われそうだが、将来的なことを考えると早いうちに転職する方が良いだろうとの結論に至ったため、そういうわけにもいかない。
 どうしてこうも転職活動がしたくないのかと言われると、学生時代、就職活動時にお祈りされ続けて内定がなかなか貰えなかった頃のことが一種のトラウマになっているからだろう。値踏みされ、否定されるのが怖い。社会に出て数年。学生の頃に比べると、だいぶ面の皮が厚くなった自覚があるし、採用活動の側面も見る機会があり、就職活動/採用活動はそれぞれの利害関係の一致不一致に過ぎないと理解しているのに、それでも不意に心の奥底に沈めたはずのナイーブさが顔を出す。

 転職活動に伴い、履歴書や職務経歴書を整理すると、何者でもない私自身に直面する。結局、私は特別ではなかった。そして普通に社会人を続けることも出来ず、未だに居場所を探し続けている。どこで間違ったのか、と問うことは今はやめようと思う。選択肢は、確かにあった。選んだり、選ばなかったり、流されたりした結果が現在の私である。かつての就職活動時には、「自分の人生、どこで間違ったのだろう」と、夜の研究室の進まない卒論を前にして延々と思い悩んでいたのだが、「私の人生は失敗だった」という観念が強化されただけで、結論は出なかった。だから出来るだけポジティブな言葉で人生を総括しようと思うのだが、何かを達成したと言えるようなことは何もなく、得意なことも好きなこともたいしてなく、そもそも何も言葉が出てこないことに気づく。私の人生は何だったのだろう。
 転職活動をしているとそんな無意味に等しい人生を送ってきてしまったことを、社会から断罪されている気がする。お前のような何も出来ない人間はこの社会には要らないのだ、と。
 それでも私はこの社会で生きていかなければならない。これからどうしたら良いのだろう。人生90年時代を生きる私は、残りの半世紀以上もの時間を前に呆然としてしまう。

 答えのない問いの海に溺れそうになっていることに気づき、慌てて思考シャットダウンする。現実的に、すなわち具体的に考えることを自分に課す。私が私の将来に望むものは、もはやもうほとんどない。ささやかな生活の保障である。そのための職が欲しい。そのための手段、それだけを今は考えるべきであり、人生を思い悩む時間は無駄である。
 それにしても嘆きたくなる。どうしてこうも生きていくのは大変なのだろうか。ああ。