読書録 地方生活の日々と読書

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ハードSFの洗礼を浴びる 『順列都市』グレッグ・イーガン【読書感想】

 「SF おすすめ」などと検索すると、「ハードSF」なる言葉と共に紹介されている作家、グレッグ・イーガン
 ハードSF、少なくとも初心者向けでは無さそうな響きである。しかしグレッグ・イーガンの名前の横には「ハードSF」という言葉だけではなく、「傑作」やら「面白い」やらの言葉も並んでいる。自然と名前を覚えた。そして年末の早川書房電子書籍セールで、長編小説順列都市を見つけ、上下巻一気買いした。買ったからにはいくらハードSFの敷居が高くとも読むしかない。

順列都市』を読む

 この小説は、人間の神経回路をコンピュータ上にプログラミングする「コピー」なる技術が存在する近未来を舞台にしている。人々は金さえあれば、肉体の死後もコピーとしてコンピュータ内で生き続けることができる。しかしコピーの技術にも欠点はある。コピーを走らせるハードウェアが壊れてしまったり、何かしらの問題が起き計算能力が不足してしまったら、コピー達は存在することができなくなる。
 主人公の一人、人工生命学者のランバートはこのコピーの存在がハードウェアの能力に規定されてしまうという問題を解決する、「塵理論」なる理論を発明する。そしてその理論の実証となるシミュレーションのシミュレーションとしての都市とそこに住む人々をプログラミングする。物語の前半はこの「塵理論」を発明し、実証を目指す過程を、後半は理論の実証により生まれた「順列都市」で不死を手に入れた人格達に迫る危機を描いている。

 上記の曖昧な説明、なんだかよく分からないと思われるだろう。実は書いている私もあまり良くわかっていない。さすがハードSF。私はこの物語の根幹となるアイデア塵理論」が実は良く分からなかった。理解しようとして読むことも諦めてしまった。順列都市も何が順列なのかよく分からなかった。
 私は検索依存症なので、読み終わってすぐに「順列都市 感想」とネット検索した。個人の読書ブログをいくつか読むと「分からなかった」という言葉が並んでおり、少し安心した。また塵理論を解説するページもいくつかあり(SF界隈では有名な理論なのかな?)、やはり自分が疑問に思うようなことは、他の誰かも疑問に思っているものだな、と自分の凡庸性を確認した。
 このように私は『順列都市』を理解したとは言い難い。しかし楽しめなかったのかといえば、そうではない。実際、一週間足らずで読み切ってしまった(もしかしたらこの一気読みが理解の妨げになってしまったのかもしれないが)。文庫本では上下二冊で560ページある。今とは異なる社会背景に、難解な言葉たち。それでもグイグイと読まされてしまった。

 驚きなのは「順列都市」が30年も前に生まれた物語ということである。舞台が2045年とすぐ近くの未来であることに違和感を覚えたぐらいで、他には30年も以前に書かれた小説であることをほとんど感じなかった。扱っているテーマも「不死」あるいは「肉体の死と人格の死」という人類が直面する普遍的な問題であることも、小説に「古さ」を感じないポイントなんだろうと思う。

ハードSF的世界観に浸る

 ところで、ハードSFとは何だろうか。きっと今までも多く論じられてきた論点だろう。私はこの小説を読み、ハードSFとは世界観ががっつりと練られ、その世界観を元に構成されたSF小説なのだろうと思った。私は「ここではないどこか」を求め、本を読み漁っているところがある。「ここではないどこか」は、実はどこにでもあるのだけれど、その一つの極点であるのがSF的世界なのだと思う。私がSF小説を読むようになったのは、私が生きる社会とは異なる社会で、私と同じ人間がどのように生活しているのかということに興味があるからだと思う。ハードSFはその骨太な世界観によってその欲求を満たしてくれる。
 『順列都市』で私が面白いと思ったのは、その世界観から導き出された物語の細部である。例えば金持ちは肉体の死後もコピーとして生き続け、その金を持って現実世界に影響を及ぼし続け、やがて世界の富の大多数はコピーのものとなるだろう、となればコピーに人権や参政権が与えられるのも時間の問題だろうという設定や、生前に作られたコピーの多くは自分の存在がプログラミングに過ぎないという事実に耐えられず自ら「脱出」してしまうといったエピソードだ。このような想像力を刺激される細部に満ちており、物語に分からない部分があったとしても楽しむことができたのだろう。
 ハードSF。その言葉に怯まずに、これからもSF小説ライフを楽しんでいきたい。


順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(大木毅著)【読書感想】

 独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(大木毅著)を読んだ。
 岩波新書から出版されており、第二次世界対戦におけるドイツとソ連の戦争についてコンパクトにまとめられた一冊である。
 以下、目次。

はじめに 現代の野蛮
第一章 偽りの握手から激突へ
 第一節 スターリンの逃避
 第二節 対ソ戦決定
 第三節 作戦計画
第二章 敗北に向かう勝利
 第一節 大敗したソ連
 第二節 スモレンスクの転回点
 第三節 最初の敗走
第三章 絶滅戦争
 第一節 対ソ戦のイデオロギー
 第二節 帝国主義的収奪
 第三節 絶滅政策の実行
 第四節 「大祖国戦争」の内実
第四章 潮流の逆転
 第一節 スターリングラードへの道
 第二節 機能しはじめた「作戦術」
 第三節 「城塞」の挫折とソ連軍連続攻撃の開始
第五章 理性なき絶対戦争
 第一節 軍事的合理性の消失
 第二節 「バグラチオン」作戦
 第三節 ベルリンへの道
終章 「絶滅戦争」の長い影
文献解題
略称、および軍事用語について
独ソ戦関連年表
おわりに


 1941年から1945年まで続いた独ソ戦では、数千キロにも及ぶ戦線で、百万人単位の軍隊が激突した。この本によれば、損害の大きかったソ連軍では1158万5057人の軍人がなくなったという。第二次世界大戦での日本軍の死亡者数が210万から230万人というのだから、その死者数の多さには驚くしかない。しかし独ソ戦の特異さはその規模の大きさだけではない。「独ソともに、互いを妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある」。
 しかしこのような本質については、日本では専門家以外にはほとんど知られていないという。
 確かに私は、独ソ戦の戦争の本質どころか、独ソ戦自体もほとんど知らなかった。ここまで大きな戦争をドイツとソ連は行っていたのか。例えばフィクション作品『卵をめぐる祖父の戦争』(デイヴィッド・ベニオフ著)レニングラード包囲戦を初めて知るといった具合で、この戦争について体系的に学んだ記憶がない。
 軍事の専門家である著者が、私のような素人にも分かるようにと書いたのがこの一冊である。非専門家向け(一般向け)の入門書という位置付けだ。そのため、一読してとても丁寧に作られた本であると感じた。専門家が一般読者向けに書いた近現代の戦史というのは、意外と珍しいのではないかと思う。

 この本は通史ということで、少し引いた視線で独ソ戦を俯瞰する。個々人の悲惨さではなく、もっと大きな視野で悲惨さが生じたメカニズムを解説していく。両国が戦争に向かう時代背景や独ソ両国の内政外政の状況も丁寧に書かれており、つまづくことなく読み進めることができた。軍事用語も多く使われているが、簡単な単語集もついている充実ぶりである。

 この本の面白いところは、「以前はこのように考えられていたが、現在ではこのように解釈されている」といった記述が多くあるところである。過去(冷戦時代)と現在では、独ソ戦の研究が大きく進歩しているという。著者は読者に易しく知識のアップグレードを促す。残念ながら私にはアップグレードの元となる知識がなかったのだが、それでも過去の解釈と現在の解釈の違いを知ることは興味深かった。
 また、この本では独ソ戦自体だけではなく、戦後独ソ戦が、どのように政治のプロパガンダに使われていたかということにも言及しており、興味深かった。政治というやつは、これだけ人が亡くなった戦争ですらも、自らの主張を通すための道具にしてしまうのかと薄ら寒い思いをした。

 この本を読んで、改めて戦争というものを恐ろしく感じた。人間はなんと愚かな生き物なのだろう。
 ところで、国家という概念が大きく変容しつつある現在において、戦争というものはどのような形をとるのだろうか。「テロ化」や「外注化」が進むであろう未来の戦争では、戦時国際法は果たして守られるのだろうか。戦時国際法よりイデオロギーが優先された独ソ戦の悲惨さは、現在を生きる私たちに、重要な教訓を残している。

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

  • 作者:大木 毅
  • 発売日: 2019/07/20
  • メディア: 新書

人間の速度で進む戦争映画。『1917 命をかけた伝令』(サム・メンデス監督)【映画感想】

『1917 命をかけた伝令』(サム・メンデス監督)を観てきた。すごい体験だった。出来れば映画館で見てきてほしい。今までにない映像体験が待っている。

 映画が始まってすぐに圧倒された。始まる前の予告編を眺めているときは寒いくらいだったのに、顔が火照っているのを感じた。ホラー映画でもないのに、血圧が上がり、心拍数が上がっていた。それが、分かった。

 第一次世界大戦中のフランス。イギリス軍とドイツ軍が塹壕戦を繰り広げているなかを、イギリス兵の主人公が、15、6キロ離れた友軍に伝令を伝えるというだけの映画である。最新の兵器も、特殊技能を持ったすごい人も出てこない。主人公はただの上級兵であるし、装備も銃剣に手榴弾だ。やたら重そうな軍服に、タライのようなヘルメットを装着している。課せられた任務も伝令といった地味なものである。伝令を伝える手段はもちろん自分の「足」。しかし、それらのことはこの映画の魅力を全くもって損なわない。
 前線からドイツ軍が撤退したのを見て、いまが好機と突撃をかけようとしている友軍に、「それは罠だ、攻撃を中止しろ」と伝えるのが、主人公たちの役目である。攻撃開始予定の翌朝までに伝えなければ、1600人もの仲間が犬死にしてしまう。15、6キロというと近いように感じるが、そこは戦場。有刺鉄線を抜け、泥道を進み、遺体だらけの放棄された塹壕を抜け、破壊された街を行かなければならない。そこは生と死が隣り合う場所であり、彼らは文字通り、多くの死者を乗り越えていく。

 この映画の凄いところは、ほとんどノーカットで2時間近くの映像を撮っているところだ。実際はどうなのかは知らないが、私には2カットしかないように感じた。超長回しだ。この効果がすごい。
 カットを切らないということは、ひたすらに主人公に寄り添うということだ。あるときは後ろから、あるときは正面から、カメラは主人公たちを映し続ける。そして必然的に、映像は人間の目線で、人間の時間軸で進むものとなる。この人間の目線、時間軸で進む映像というものが、自らの身体一つで敵地を進み伝令を伝える人間の物語に、素晴らしくフィットした。私たち観客はそれらの映像に飲まれ、主人公たちの感じる緊張感を共有することになる。映画館に座っている私たちは主人公らの疲労や痛みを感じることは出来ないが、同じ目線の映像を通して不安や恐怖は感じることができるのだ。戦場の緊張感は、この2時間を通して緩むことはない。

 そしてそんな映像から浮かび上がるのは、人間の目線で見た戦争そのものだ。個人の目線で見た戦争には、政治も大義も、正義も悪もない。敵と味方がいて、それらは同様の肉体を持つ人間で、ナイフで刺せばあっさりと死んでしまう生き物である。同じように祖国に家族が、帰りを待つ人がいる。主人公たちは多くは語らないが、それでも、戦争そのものが持つ虚しさというものが、ひしひしと伝わってきた。特にラスト近くの一斉攻撃のシーンは圧巻。ああ彼らは何をやっているのだろう。なぜ異国で殺し合っているのだろう。

 映画が終わり、明かりが灯った。にも関わらず、場内は沈黙が支配していた。同じ映画体験をした誰もが圧倒されていたことを感じた。自らの鼓動がうるさい。他の映画を観た後とは、明らかに違う心理状態だった。映画という客観的体験ではなく、敢えて言えばゲームのような主観的な体験、没頭感だったと思う(「第1次世界大戦」「塹壕戦」ということで『デス・ストランディング』が思い浮かんだ)。
 本当にあっという間の2時間だった。おススメです。そして圧倒的な映像体験をするために、ぜひ映画館に足を運んでほしい。