本当は好きなものは好きと言いきりたい 『ショーシャンクの空に』
好きな映画は何かと問われたときに、俗に言う「名作」の名をあげるのは恥ずかしい。単なる自意識過剰だが。
しかしここは匿名ブログなのでこの問いに堂々と応えようと思う。
私は『ショーシャンクの空に』が大好きである。
映画鑑賞歴も短く大量の映画を見た訳でもなく、見るジャンルも少ない私なので(ホラーとかスプラッタとか病院物とかパニック系とかが苦手なのです)、誰にも絶対にオススメと言いきれるわけではないし、これからもっと面白い映画に出会わないとも限らない。
けれども面白いものは面白いと思う。
内容の紹介はいいだろう。
ところで感想ブログなので、この映画のどこが面白いのか言語化しなければならない。けれども感想を書くのは難しい。好きな映画ならばなおさらだ。
一番好きな場面は、主人公アンディの脱獄が成功した場面、特にスーツを着た彼が銀行を廻り、貯め込んだ裏金を下ろす場所である。
次に好きなのは、刑務所の不正が発覚し、刑務所の前にマスコミやパトカーが詰めかけるシーン。
単純に勧善懲悪が好きなのかもしれない。
『ショーシャンクの空に』において、勧善懲悪の場面が持つエクスタシーがこれほどに爽快なのは、その場面に至るまでに、善の抑圧がこれでもかとあるからだろう。
この映画に描かれる悪を勝手に二種類に分類する。
一つは刑務所そのもの、終身刑そのものがもつ時間である。
無罪のアンディが受ける刑務所での19年間の罰。映画では二時間余りだが、彼の体感する月日は長く重い。50年の投獄の末、仮釈放が赦されたブルックスの悲劇。
囚人たちはいつの日か、ショーシャンクの高い壁を頼るようになる。
(ところでキングの原作にはいない(と記憶している)ブルックスの存在も大好きです)
二つ目の悪はショーシャンク刑務所の所長や刑務官たちである。彼らはこの映画では、絶対的な悪として描かれている。
暴行の末受刑者を殺すは、不正に私腹を肥やすわ、都合の悪いことは徹底的にもみ消し人殺しも辞さないし、更生のためではなく私的な罰を与えるためだけに懲罰房を用いる。アンディも所長の裏金作りに加担させられる。まるで奴隷のように。
アンディもこの二つの悪に去勢されてしまったかのようにみえた。
しかし例の脱獄のシーンで、決して彼が悪に屈していなかった事が明かされる。
投獄中の長い年月を通し、アンディは「必死に生きた」
彼は刑務所の壁を頼らなかった。
所長らの悪だくみにも従順に従っていたわけではなかった。
たった一人で壁を掘り、たった一人でショーシャンク刑務所に勝利した。
だから鑑賞者である私は、脱獄シーンに感動する。
悪者は罰せられて欲しいという単純な願望の対として、善き者は幸せになって欲しいという願望もある。
この映画はラストシーンでその願望にもしっかりと応えてくれる。
我らが語り部レッドに我々鑑賞者はいつの間にやら感情移入している。
レッドはれっきとした殺人犯だ。
しかし我々は現在のレッドが決して悪者ではないことを知っている。更生の在り方を示してくれる。
ラストシーン、レッドとその友人アンディは新たな地で新たな道を歩み出す。
忘却の海太平洋の浜辺で。
我々は二人の幸せを心から確信する。善き者は幸せになるべきだ。
完璧な勧善懲悪が完結する。
そしてああ面白い映画だったなあと思う。
ところで私が勧善懲悪ストーリーが好きなのは、現実では勧善懲悪が通らないからだ。
善き者が罰せられ悪者が蔓延っているという面もあるだろうが、それ以前に、現実に生きる人間は善き者悪き者に二分できないということがある。
完璧に善い人間も完璧に悪い人間もおらず、中途半端に善くて悪い普通の人間が、同じように善くも悪くもない人間たちに囲まれ生きて行くしかない。割り切れない関係の中で、不条理を生きていく。世の中に問題は多いが、快刀乱麻を断つ解答はどこにもない。
しかし私たちはどこかに絶対的な正解があるのではないかと思ってしまう。いやむしろ、そうであって欲しいと思いたがる。勧善懲悪を好むのは単純さ、分かりやすさを求める願望だろう。
物事の単純化は危うさを孕む。
だから我々は現実の勧善懲悪や正義という言葉には注意を払わねばならない。
だから不条理な現実の憂さ晴らしとして、『ショーシャンクの空に』といった映画を見るのだろう。
『ショーシャンクの空に』は大好きだ。
この映画の悪役中の悪役である所長は不正発覚時に自殺する。
悪は滅びる、と映画を見る私たちは思う。
しかし現実には、誰かが自殺して良かったなんてことは決してありえない。
話がすごく飛躍してしまった。
感想文は難しい。