『人生問題集』 春日武彦 穂村弘
謎の体調不良
起きた時から頭が重かった。
痛いとまではいかない。
眉間のあたりが締めつけられたように重い。
瞼の周りも痛い。
何も見たくない。灯りがやけに眩しい。
十分に眠ったはずなのに生あくびが出る。
体が冷たく、重い。
辛かった。
実験をさっさと終わらせて、ベッドに倒れ込みたい。
実験後、自分のデスクに突っ伏してしばらく目を閉じていたら、それらの症状は引いていった。
スイッチが入ったかのように、頭も体も働く。
ブログも書ける。
主観の言語化と世界への違和感
しかしとにかく昼過ぎまで、私はとても辛かった。
症状を上のように羅列すると大したことがないようにみえる。
けれども私は辛かったのだ。
私の感じた辛さはあくまで私の主観的なものである。
すべてを言語化することはできないし、他者との比較もできるものではない。
もっと辛い症状を抱えている病人もいる、と言われたところで私は彼の辛さを真に理解することはできない。
人間は社会的な動物であるからかどうかは知らないが、人間は主観的な感覚を言葉に表わし他者と分かりあおうとする。そして誰もが同じ世界を同じように享受しているという前提の元に社会的な活動を行う。
世界のお約束は、平均なのか中央値なのかは知らないが、あくまで幻想である。そのために社会が前提にしている世界と自らが主観的に感じる世界との間にずれが生まれるのだろう。
世界への違和感を感じるか否か、あるいは感じた後にその違和感をどのように処理するのか。
対談集『人生問題集』を読んで、二人の対話者は、世界に違和感を感じ、なおかつそれをどのように受け止めるべきか分からず途方に暮れてしまった人に思えた。
『人生問題集』
この本では精神科医春日武彦と歌人穂村弘が、「友情・怒り・救い・秘密・努力・孤独・仕事・家族・不安・記憶・言葉・お金・愛・読書」という、普通の生活では友人とはまず話すことはないようなことをテーマを語りあう。
時には正面から、時には思いもよらなかった視点から。
しかし対話の底には、世界に対する違和感のようなものが常に流れているように思う。
世界の受け取り方が自分だけ違うのではないか、といった感じだろうか。
違和感を感じ続けるのは辛いことだと思う。
そしてその辛さは最も他人の理解を得にくい辛さだろう。
私は穂村弘の歌が好きだ。世界に対する違和感を短歌として言語化しているからである。
『現実入門』などのエッセイを読むと、本当にこの人は大丈夫かと心配になったりもするのだが、短歌では、私も以前確かに感じたことのある違和感を、鋭い言葉で鮮やかに世界から切り出して見せる。
その言葉によって立ち現われる独特な世界の様相が好きだ。
その鋭さは本対談集でも健在である。
私が普段何気なくこなしている生活の些細な事象に彼らは引っかかり、その引っかかりから新たな世界の見方が提示される。
もちろん世界の見方に正解不正解はないが、今まで当たり前と思っていた見方が実は相当おかしいのではないか、あるいは、このような前提があったから当たり前として受け取って来たのか、などと思えてくる。
例えば
『穂村 救いは内容じゃなくて量なんだね。(略)子供の頃の絶対的な経験値の不足、世界の純粋さの中では、例えば担任の教師に目の敵にされたりしたらもう地獄』
『穂村 そういう過程に何か宿るという考え方は、僕ら人間の生命体としての宿命みたいなものと、どこかで関係がある気がするね。つまり、有限であること、ゼロではないがどれぐらい生きるかという長さはわからないという宿命を共有していることと、過程への不思議な光の当たり方というのはすごく関係しているんじゃないかな』
といった具合に。
ちなみに私は、世界への違和感を感じても、それをそのまま「そんなものか」と流して忘れてしまうような人間だ。
生きやすいといえば生きやすいが、もしかしたらその流してしまった感覚の中に大切なものがあったのではないかとも思う。