人生初の廃墟本。 『総天然色 廃墟本remix』 中田薫・文 中筋純・写真
何が「総天然色」なのか、何が「remix」なのか。
そう思いながらも、手に取りペラペラめくるうちに、何かがピンときて気づいたら購入していた。
疲れていたのかもしれない。
が、読む。
興味深い。いや、感慨深い。総天然色=オールカラー?
廃墟に興味はありますか。
正直、私はありません。
廃墟ブーム、という言葉は聞いたことがある。
廃墟を撮った写真集が並んでいることも知っている。
ふと友達が「軍艦島行ってみたい」と言ったことも覚えている。
が、自ら進んで廃墟へ行こうとは思わない。
写真集を一人暮らしの部屋に置いておきたいと思ったこともない。
長崎の美味しい魚介類とセットでなら、軍艦島はちょっと行ってみたい。昼間なら。
廃墟、と聞くと、どこか怖い印象がある。廃墟=心霊スポット的なアレである。
先入観なのか、言葉の問題なのか。びびりな私には敷居が高い。
けれどもこの本に納められた写真から感じるのは、恐怖ではなく、何ともいえない寂しさである。
諸行無常、そして、盛者必衰
平家物語の冒頭部を暗記させられたことがあるのは私と私の同級生たちだけではないだろう。
この本を読んで浮かんだのが、「祇園精舎の鐘の声~」であった。
この冒頭部、理、というだけあってしみじみと深い、世界の真実が籠められているように思う。
本書は全部で46の廃墟を扱っている。一件につき、7枚程の写真と2ページ程の文章が載せられている。
取り上げられている廃墟は、どこも一時期は興隆を極めていた。
かつての日本を支えた鉱山であったり、高度成長期に増築を重ねた旅館であったり、バブル期に計画されたリゾート施
設であったり。中には信者を集めたねずみ講の施設まである。
しかし今、私たち読者が本を通して見るのは、その無残な成れ果てである。
外観は自然に飲み込まれ、内はガラスやガラクタが散らばっている。
そして当たり前だが、人気がない。
かつては人に求められ、人のために作られたモノたち。
時は流れ、モノたちはだんだんと求められる機会が減っていく。
だんだんと錆び、しかし、栄光の日々のように彼らをメンテナンスする人はいない。
そしてある日を境にぱったりと人たちがいなくなる。
モノたちは見捨てられたのだ。
一度見捨てられたモノたちは、二度と人に求められることはない。
モノたちはひっそりと、朽ち自然に帰るまでの膨大な時間を待つ。
明治以降に作られたモノたちは、豊かな日本の自然をもってしても簡単には飲み込めない。
アンバランスな腐食が進み、やがてモノたちは廃墟と名を変える。
廃墟は朽ちる運命にある。
しかし現代人は、細菌たちによる遅緩な作用を待ちきれない。
この本の肝は、取り上げられた廃墟のほとんどが、今では取り壊されていることだろう。
取り壊され更地になってしまった後は、モノたち、あるいは廃墟はもはや写真や記憶の上でしかこの世に存在しない。
印象深い一節を引こう。『奥秩父白久温泉 鹿の湯』より。
内部は乱暴者たちによって既に相当荒らされた後となっていたが、奥秩父の厳しい自然環境も宿の崩壊を加速させて、現在では完全に倒壊してしまったという。
だが建物のそこかしこに、この旅館を守ってきた老夫婦の実直な仕事ぶりと、つつましやかな暮しぶりが見て取れた木造建築は、今でも美しい山間の廃墟として記憶に残っている。 (p193)
モノが廃墟に変わる理由はいくつもある。
時代に取り残された愚かさを笑うか、時代の流れの残酷さを嘆くか。
廃墟となったモノたちは何も語らない。
廃墟本を読む私たちは、廃墟となったモノたちと決別し、今を生きる。
モノたちを見捨てるとは、未来を生きるための選択であったのだ。
それでも。後ろに置いてきたはずの廃墟に、私の体が飲みこまれるのはそう遠い未来ではない。