読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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読書がつながる瞬間

読書を趣味としていると、以前読んだことのある本とそのとき読んでいる本がつながる瞬間がある。
直接的に繋がることもあるし、間接的なイメージによって繋がることもある。
その瞬間は、思わず目を見開いてしまう程の戦慄と喜びに満ちている。読書の醍醐味ここにあり。

昨夜、そのような瞬間を久しぶりに体験した。
自己満足な記録として書き残しておこうと思う。

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』の意味。

少し前から、ミラン・クンデラにハマっている。
きっかけとなったのが『存在の耐えられない軽さ』であった。池澤夏樹の世界文学全集のものだ。水色っぽい表紙が良かった。
読んだ。面白かった。サビナ好きだ。
が、その『存在の耐えられない軽さ』という題意はいまいちよく分からなかった。
ぼんやりと、無限の時間に対する一個人の人生の短さといった意味なのかなと思っていた。
後に『不滅』を読んで、「これこそが『存在の耐えられない軽さ』と名づけられるべきだ」との部分を読んだ際もどうしてなのか、良く分からなった。

が、今回、別の本を読んでいて、そこらへんのことがすっと入ってきた。

読んでいたのは米原万里嘘つきアーニャの真っ赤な真実である。
中東欧を舞台とするエッセイである。読んだ。すごかった。
すごい本はすごい、としか言えない。この本はすごい。自分のなかのベストが書き変わったぐらいすごい。
あまりのすごさに思わず、感想っぽいことを書きなぐっていると、ふと『存在の耐えられえない軽さ』のことが頭をよぎった。ミラン・クンデラが舞台にしたチェコ・スロバキアに思いが飛んだ。
冷戦下における世界史を私はよく知らない。でもそのときの紛争がミラン・クンデラの物語の背景にあることは確実だ。
『存在の耐えられない軽さ』とは、大きな社会や思想のなかで蔑ろにされる個人の生活のことなのではないか、と思った。
少し前に見た『サルバドールの朝』という映画も効いているかもしれない。
この映画を見て、ヨーロッパにおける民主主義や自由の概念が、あるいは、政治という概念そのものが、日本とは肌感覚からして違っているのだろうということを感じたのだった。現代日本に生きているだけでは分からない、きな臭さ、がそこにはある。

でもそれだけだろうか。社会のなかの個人、というだけでは小さすぎないか。
やはり生きる短さ、みたいなことも題意には含まれているのではないか。

ふっと川が頭に浮かんだ。光景としてではなく概念としての川だ。

ヘッセ『シッダールタ』の川だった。
『シッダールタ』自身も完全に理解できたとは言い難い小説だったが、この小説は私にあるイメージを植え付けた。
川。個人が溶けあい一つになっていくという川。

社会はやがて歴史になり、そして文化・文明へと続いていく。
そのなかで個人は短い生をつないでいく。個人は社会や歴史に飲みこまれ、やがて顔も名前も漂白される。今まで地球上に生まれ、これからも生まれていく無数の人間のなかの一人として、ただの数字となる。
個人が子孫に残せるものは遺伝子だけか? 名も顔も知らぬ先祖の生活が私の血には流れている。実感はない。

大きな社会や歴史の流れのなかで、個人は断絶を繰り返し、その存在意義を問う。
答えは私の耳には聞こえない。

代わりに聞こえてきたのは次の一節だった。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。

すとん、と腑に落ちた。
『存在の耐えられない軽さ』とは方丈記だったのだ。
えっ、違う? そうかもしれない。
だが私には文学評論を読み込み、正解を探すつもりはない。
作者の意図を答えよという試問を受けるのは義務教育だけでお腹いっぱいだ。

存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)