海小説!ジブリ映画『思い出のマーニー』の原作小説を読む【読書感想】
今週のお題「海か? 山か?」
物心ついたときから海が好きだった。船も魚もひっくるめてとにかく大好き。なので、海か山かと聞かれたら「海!」と即答する。
それは現実でも物語でも変わらない。
(ちなみに我が田舎町には海も山もある。魚美味しい。山には熊注意の看板や心霊スポットがある。やはり海だ)
海の物語
「海洋冒険小説」というジャンルがあるかどうかは知らないが、船に乗って冒険にでる、といった物語が大好きである。『宝島』をはじめとする児童文学、『白鯨』などの有名どころ、『パイレーツ-掠奪海域-』といった軽いもの。自分のなかでは『二年間の休暇』といった孤島ものも「海小説」に分類している。なかでも特に好きなのは、帆船もの。一押しはセリア・リースの『レディ・パイレーツ』。現代作者による児童文学の傑作だと思っている。
一方、山の物語といってもなかなか思い浮かばない。
まず浮かんだのが『八甲田山死の彷徨』。夢も希望もない。高校生のときに読んだが、とにかく怖かった。次々と倒れていく兵士たちを想像したくないのに、想像してしまう。今でも思いだすと怖い。
印象が強すぎてもう二度と読みたくないと思う本が何冊かあるが、本書はその筆頭である。
2014年ジブリアニメの原作は海小説!
気を取り直して海小説。
最近読んだ海小説はジョージ・D・ロビンソン『思い出のマーニー』。
今年のジブリアニメの原作である。「2014年 新潮文庫の100冊」にも選出されている児童文学だ。
日本語題があまり好きではないなと思いながら、原題をみると『When Marinie Was There』。
マーニー=Marinie、marineから来てるのか? 海を連想させる名前だったりして。
物語の舞台はイギリスのノーフォーク。海の近くの田舎町である。
大型船は出てこないが、「ボート」や「錨」が重要なキーになっている海小説である。主人公が海辺で遊んでいるだけともいえる。
恋愛ものだと嫌だなあと思い、本の裏の紹介文を読むとそうではなさそうだったので購入。
「イギリス児童文学の名作」という文句も購入を後押しした。
女の子同士の友情ものだった。百合、とかそういう方面ではもちろんない。
恋愛よりも同性同士の友情の方が難しい、と読んで思った。そしてずっと切ない。恋愛だったらある意味気が楽であろうとも思う。
以下、ネタばれ有り。
物語のプロット自体はよくある感じだなと思った。マーニーが過去の人間だ、ということも割と早い段階で気づく。
面白いと思ったのは、前半と後半で物語が大きく断絶しているというところだ。
マーニーがいなくなる嵐の日を境にして、主人公アンナは大きく変わる。自ら手を差し伸べて、その手をとりあったマーニーを、まるでいなかったかのように思い込む。二人の関係は、そんなにアヤフヤなものだったのか、と思う。読んでいて不思議な感じがした。
マーニーの「正体」は確かに驚いたが。
マーニーとは本当のところ、いったい何者だったのか? その謎がしだいに解き明かされてゆく物語後半のスリリングな展開には、大人向けのミステリーを読みなれた読者さえ、思わず引きずり込まれるにちがいありません。
と訳者あとがき(高見浩)にもあるが、この物語で一番の魅力なのは、しかしその部分ではないと思う。
アンナとマーニー、二人の少女が置かれた状況と、その状況に対する各々の主観、そしてお互いを思いやることで成り立つ友情こそが、この物語の魅力だろう。
二人は不幸だった。自らのことを不幸だと思っていた。「不幸」は、子どもである二人に、自らを客観的に捉えることを強いた。
アンナはそのことを"外側"と"内側"という言葉で表わした。自分は"外側"の人間だから、他の子どもたちのように"内側"では楽しめない。疎外感。
客観的な視点は、否応なく、他者との比較をもたらす。親に捨てられた自分、お金のために養われている自分。アンナの周囲への気の遣いようをみているといたたまれなくなってくる。
でもだからこそアンナは、同じく不幸で、他の子どもたちとは混ざることができないマーニーと友達になれたのだ。
友情は"外側"の人間に肉体を与え、"内側"への回帰をもたらす。アンナにとってマーニーは、自分が"主観"のままでいられるはじめての友達だったのだ。
こうして友情は、不幸をもたらす客観を遠ざける。
そして友情は言葉によって告白される。
そしてこの物語の持つもう一つの魅力、あるいは、「救い」はマーニーとアンナ、二人の少女の素直さだ。
あたし、ほんとにあなたが好き。いままでに知り合った、どんな女の子よりも。
本人に向かって、心から「好き」と告白できる友達を私は今までに持ったことがあるだろうか、と思った。
なかった。残念ながら。
幼い頃から、友達付き合いには最大限の気を遣っていた。「好き」だなんて言ったら、いったいどう思われるのだろうという自意識が強く、たとえ好きだと思える友達がいても言葉にはできなかったと思う。
そしてこれからも、私は気を遣い続けるのだろうと思う。「心からの友情」や「親友」という言葉をもう信じていない自分がいる。性欲や結婚という契約がない分だけ、同性同士の友情には気をつけなければいけない。
そう思う自分が寂しくもある。
が、そもそも「純粋な友情」というものは、子ども時代の一時期しか得られないものなのだろうとも思う。自我が芽生えた後、異性を好きになる前の、ほんの一時。
その一時を、無意識のうちに感じているのだろう。別れの予感があるのだろう。だから、物語の中の二人の友情は切なさを伴う。上記の告白だって、私はとても切ないものであると思う。
アンナはだんだんとマーニーのことを忘れるだろう。錨を見ても、なんだったっけ、と思う日も来るかもしれない。
けれども大人になったアンナはもう二度と、子ども時代に感じた不幸に捕らわれることはないだろう。
友情によって新たに手に入れた世界に対する概念は、決して失われることはないのだ。