読書録 地方生活の日々と読書

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辺見庸『反逆する風景』【読書感想】

辺見庸は劇薬だ。

物質と情報で満たされ現状に甘え切った現代日本に生きる私の頭をガツンと殴ってくれる。
先進国に倦んでいる傲慢さ。安易に「死にたい」と口にする甘さ。良薬口に苦し?
自らの生活を振り返る。口腔いっぱいに苦みを感じる。
私を取り巻く豊かな生活の裏には、誰かの苦しみがあるのではないか。

辺見庸といえばやはり『もの食う人々』だろうと思う。
読んで圧倒された。世界は広い。これが新聞連載だったと知り驚いた。

今回、その『もの食う人々』の裏話等を集めたエッセイ集『反逆する風景』を読んだ。

某都会から某田舎町への帰り道。
特急電車は海岸沿いをひたすらに走っていく。
夕方。夏至過ぎ。外はなかなかに暗くならない。
それでも海の色は確実に濃くなっていき、紫色を帯びた後に暗色へと変わる。

Ⅰ 反逆する風景
Ⅱ 増殖する記憶
Ⅲ 汽水はなぜもの狂おしいのか
Ⅳ 幻夜雑記
Ⅴ 観覧車のある風景

題名そして第一部の「反逆する風景」という言葉に対しては、こうある。

 全体、風景たちはなにに対し反逆しているのだろう。
 解釈されることに、ではなかろうか。意味化されることに、ではないか。風景は、なぜなら、往々解釈と意味を超える、腸のよじれるほどの面白さを秘めているからだ。  (p11)

無意味な風景たちを眺める

そこに書かれた風景は、私の住む世界からはまるで想像のつかない世界に属する。
例えば、放射能に汚染されたチェルノブイリ
例えば、エイズに冒されたアフリカの村。
そしてそれらの風景には、人間がいる。
私と同じ種の生き物たちが、私と同じように呼吸し、代謝し、繁殖している世界。
悲惨な風景もある。
その風景の陰影からは殺菌され漂白された日本が浮かびあがってくる。

ところで、先進国で高層ビルやIT機器や食糧に囲まれ、享楽にふけることはそんなにも悪いことなのか。
先達たちが積み重ねてきた人類の進歩を享受して何が悪いのか。

私はこの問いに答えることができない。

もちろん平等を善とし、それを阻害する進歩を悪と言葉で責めることは簡単だ。
貧困の廃絶は絶対的な善であると思うし、基本的な人権はすべての人に認められるべきだ。

正論は分かる。
でも、とも思う。

本当に人間は、すべての人を思いやることは可能なのだろうか。
70億人のことを考えるなんてことは可能なのか。弱き者の立場に常に立つことは可能なのか。
隣の席に座る同級生の考えていることも分からないのに。
隣の部屋に誰が住んでいるかも分からないのに。
そもそも人類という種は億単位の同種のことを認知するようにはできていないのではないか、と思う。
だからこそ我々は、この人類に溢れた地球をどうしたら良いのか分からないのではないか。

無意味が許される世界へ

確かに私たちは世界について考えることができる。
いや、考えなければいけない。
しかし実際に生きるのは、半径数百メートルの世界なのだ。

この本にも極大と極小、あるいは、概念と具象について書かれたエッセイが収録されている。
『アヒルのいる家』。私はこの話が好きだ。
辺見家の玄関先にいるアヒルのカポネについて書かれた3ページ程の短い風景である。

私のなかの極大の不安などお構いなしに、極小の日常では、アヒルがバリバリと油ゼミを食って肥えていくのであった。哀しくもあれば、いっそ痛快でもある。  (p213)

極大の世界の見えない不安に足を止めていてもしょうがない。
私は私をとりまく数百メートルの世界で、できることをしていくしかないのだ。

反逆する風景 (講談社文庫)

この本、私は講談社文庫で持っているが、10月末には鉄筆文庫という創刊したばかりの文庫レーベルでも出版されるらしい。辺見庸の小説も同レーベルから発売予定有り。というか、鉄筆文庫という新しい試み自体とても興味ある。株式会社鉄筆は大手出版社を辞めた方が一人で立ち上げた出版社らしい。そして始めに文庫レーベルを作ったと。鉄筆の社是は「魂に背く出版はしない」。一読者として応援していきたい。

11/24追記 鉄筆文庫版には新たに二編の書き下ろしが収録されているとかいないとか。買い直そうかなあ。