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究極の自業自得 メアリ・シェリー原作小説『フランケンシュタイン』(森下弓子 和訳)【読書感想】

 日本で最も知られた西洋妖怪の一人がフランケンシュタインだろう。
本書を読む前のイメージは、顔色の悪いつぎはぎだらけの人造人間、といったものだった。雑学知識が豊富な方は、このフランケンシュタインというのが、妖怪自体の名前ではなく、妖怪を作った科学者の名前だということをご存じだと思う。その通りである。本書の中には妖怪の名は出てこない。屍者の帝国ではザ・ワンなる名前を与えられたが、メアリ・シェリーの原作では哀れな妖怪には名前すら与えられない。
 ところで本書のタイトルはフランケンシュタイン。この本の主人公は「名無しの妖怪」ではなくて、その妖怪を作り出した「人間」なのである。

ホラーじゃない。


 読んで驚いたのがホラーじゃないこと。創元推理文庫から出ている森下弓子訳で読んだのだが、その裏表紙には「恐怖と比愛に満ちた永遠不朽の大ロマン!」とある。そう、この本はロマンなのである!
 創元推理文庫版には藤純子による25ページにも及ぶ解説「『フランケンシュタイン』の過去・現代・未来」が収録されている。これが面白い。その中には、ロマン小説とSF小説のつながりについて、述べられた部分がある。ロマン小説の進化系としてのSF。『フランケンシュタイン』をその進化の源流としてみている人もいるらしい。確かに、人造人間というモチーフは生命科学を背景としている。SFといえばつい物理的な科学分野を思い浮かべてしまうが、生命科学だって立派なサイエンスだ。

 なので、本書は怖くない。グロテスクな描写もない。
 ただし色々と考えさせられる。
 
 まず、妖怪を作り出してしまい、後に家族や婚約者を殺されることになるヴィクター・フランケンシュタインに同情できないのだ。読みながら何度も「自業自得だろう」と思った。

以下、ネタばれあり『フランケンシュタイン


 この物語は回想形式で語られる。若き化学者ヴィクターは、異常な研究熱に取りつかれ、その生物を作り出す。そしてつくりだした瞬間、自らが作った生物の恐ろしさに気づく。で、気付いた彼は何をしたか。何もせずに逃げ帰ったのだ。そしてその恐ろしい実験を「なかったこと」にしようとする。

 たった一人、世界に放りこまれた妖怪は、独力で言語を獲得し、本を読み、人間や彼が生きる世界を知る。そして世界に受け入れられることを望むようになる。彼は愛を欲した。しかしながら彼は、世にもお恐ろしい容姿をしていた。どんな善良な人間も、一目見るなり、彼を恐れ敵視した。
 彼は孤独だった。その心には、作り主であるフランケンシュタインへの執着心が生まれた。その根底にあるのは「どうして俺は作りだされたのだ」という生の不条理さへの疑問であったと思う。

 で、妖怪は生みの親ヴィクターの気を引くために(と私は読んだ)、彼の身内を殺す。そして再びの出会いの後、フランケンッシュタインへ要求を突き付ける。「俺は、愛し愛される女が欲しい。だからもう一度人造人間を作れ」。

 悩むフランケンシュタイン。もう恐ろしい実験は二度とやりたくない。妖怪は言う。「もし女を作ってくれれば、俺は二度と人間の前に姿を現さない」。彼はなんと、木の実だけ食べていても生きていけるエコな肉体を持っているのだ。「だから人がいない南米でもどこでも行こう」。しかしフランケンシュタインは妖怪の言葉を信じきれない。「もし」、という仮定を重ね、「人類のためにも、二度と妖怪を作り出さない」と決意する。彼は妖怪を裏切ったのだ。当然にその報いを受ける。

 新妻を殺されたフランケンシュタインは、孤独の底に落ちる。そしてその生涯をかけ、妖怪を倒そうと決意する。

 追われる妖怪。追うフランケンシュタイン。彼らは北へと向かう。

深読みできる作品でした。


 ストーリーはざっとこんな感じである。解説によるとこの本のテーマは「科学者の責任」や「知ることと幸せ」、「全てを捨て真理を求めるか、それとも身近な幸せを守るか」といったことらしい。なるほどなと思う。いろいろな読み方ができる小説である。
 
 私はこの小説の一番の主題は「生きる目的」であると思う。
 後半、無意味な生を与えられた妖怪と、生きる目的を奪われたフランケンシュタインは、己の存在をかけて追いかけっこをする。
 妖怪は追われることを、フランケンシュタインは追うことを、至上の目的としている。何のために追われる/追うのかという目的が霧散し、追われる/追うために追われる/追う、となっているように思える。二人の姿は、滑稽である。しかし、二人はその追いかけっこをやめることができない。何故なら追われる/追うことは、彼らの人生の目的だからだ。どちらかが死ぬまで、その追いかけっこは続く。

 現実に生きる私たちは、彼らの愚かしさを客観的に見ることができる。
 彼らの誤りのもとには、生きる目的がなければ生きていてもしょうがないといった価値観があるように思う。目的や意味が分からなくたって、生きていたければ生きていればいいのだ。

 いや、彼らだってそのくらいは分かっていただろう。ただ、人生の途中で気づいたとしてもやめることはできなかったのだろう。特にフランケンシュタインにとっては。復讐をやめたとしても、彼には何も残っていない。失った家族、失った時間は戻ってきやしないのだから。人生の全てを無駄に費やした自分を認めることは誰にだって難しい。

 最後に。本エントリーではフランケンシュタインのつくった人造人間のことを「妖怪」と書いてきた。しかしやっぱり違和感がある。「怪物」の方がしっくりくる。人が作り出したものは「妖怪」ではないイメージ。言葉のもつニュアンスって大切。

フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))