読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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意識低い系な学生生活雑感

 忙しかった。が、とにかく卒論の提出および発表が終わり、学外における発表も残りひとつとなり、一山越えた感がある今日この頃。本を読むことはともかく、ネットで遊ぶ暇はなかった。計画性のなさが原因といわれればそれまでだが。

 二月も終わりに近くなり、見えてきたのは学生生活最後の長期休みと就業である。この数年の学生生活、特に研究室生活とは何だったのかなとふと考える。そんなに簡単に答えが出るわけはない。が、ついつい自分の人生を言葉で規定したくなる。
 少なくとも人生で一番、自分の人生について考えた日々だったように思う。モラトリアム。けっして充実した日々ではなかった。しかし辛かったとは言うまい。自分探しの言葉が内包する甘さも十二分に享受した。モラトリアムに浸れるだけの余裕があった。恵まれていたというのは事実だ。

 私が過ごした学生生活は、「意識高い系」の人々とはまったく異なったものであったろうと思う。決定的に異なる点は目的の有無だ。何かになりたいわけでも、何かが欲しいわけでもなかった。いや、もちろん普通に就職したかったし、欲しい文房具や欲しい本はいっぱいあった。しかしそれを得ることを生活の中心に据えるようなことはしなかった。
 そんな目的のない生活の中、ひたすら人生の意味を問い続けた。意味などないことは分かっていた。しかし、意味のない人生をどのようなスタンスで生きていけばよいのかということを必死に問い続けていた。まるで答えを知らなければ生きていくことが出来ないとでも言うように。答えのない問いを問い続ける、不毛で贅沢な日々。得たものもあったが、失ったものも多かったと思う。

 人生の無意味さに耐えられないと思ったことも度々あった。そんなことを愚痴れる友人もいないので、代わりに本を読んだ。読んで読んで読みまくったつもりではあるが、もっと読んでおけばよかったとも思っている。中途半端な読書数、そして読んだ冊数の割りには私の中に残っていない文章。精読できないのなら、数でカバーするしかない。そんな思いがある。これについては間違っているのだろう。そんなこと分かっている。が、結局、乱読しかしていない。

 読書はある弊害をもたらした。いつの間にか、世界を相対的にしか見られなくなっていた。相対的に、俯瞰的に物事を捉える、これは基本的には良いことだろう。しかし私は、私自身の存在さえも、相対的にしか見られなくなってしまった。時空間的に広い目で見ると、私とはただの数字に過ぎず、あるいは歴史にも残らない大衆の一人にしかすぎない。「かけがえのない私」という言葉をどうしても信じることができない。いや正確には、「かけがえのない私」という言葉に意味があるとは思えない。
 時折、東京や大阪へ行く。大量の人の数に圧倒される。「かけがえのない私」の大群。目の前を流れていく人々、一人ひとりに名前があって、「生きる目的」があって、送ってきた人生があって。信じられないほど面白いと思う。と同時に、それらは意味があるのかとも思う。でも、第三者から見たら私もそんな大群の中の無名の一人でしかなくて。自分の存在の小ささ、あやふやさに眩暈がした。
 絶対的なものを信じられない人間、自分すらも絶対的であるとは思えない人間は何を信じて生きていけばよいのだろう。信じることができないのならば、信じたふりをするか、もしくは問い続けるしかないのか。

 さてしかし。私はもうすぐ就職する。モラトリアムは終わる。終わらせるよう努力すべきだと思う。
 目先の目的に追われずに生きることができる時間を、若いうちに持てたことは幸せだった。たぶん。しかしそればかりではいけないだろう。目先の目的を追って追われて生きる、きっと人間の本来の在り方というのはそこにあるのだろうと思う。モラトリアムに浸ってばかりでは前に進めない。
 仕事や子育て、あるいは趣味が生きる目的ですと言い切るのは、確かに愚かである。しかし人間の尊さというものは、まさしくその中にあるのだろおう。
 なんというか、もっときちんと生活しようと思います。
 
 カミュの『シーシュポスの神話』を読み返したくなってきた。
 明日からは通常の読書ブログに戻ります。