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世捨人にすらなれない。車谷長吉『贋世捨人』【読書感想】

 私小説を無性に読みたくなるときがある。人間のダメなところをみたい、という切実な欲求に襲われることがある。そんな欲求に見事応えてくれた一冊。車谷長吉『贋世捨人』は人間のダメなところを見事白日の下に引きずり出す。

 人間の偉さには、どんなに偉い人でも、必ず限界があります。併し人間の愚かさの方は底なし沼です。

 本書は、底なし沼を内に抱えた「私」の二十代中盤から三十代後半までの人生の物語である。
 私にとっては赤目四十八瀧心中未遂に次ぐ、二冊目の車谷長吉。想像以上に面白く、一気に読んでしまった。おかげで明日の朝に読む本がない。どうしてくれよう。

世捨て人にもなれなかった

 二十五歳の時、私は創元文庫の尾山篤二郎校註「西行法師全歌集」を読んで発心し、自分も世捨人として生きたい、と思うた。併し五十四歳の今日まで、ついに出家遁世を果たし得ず、贋世捨人として生きて来た。つまり、私は愚図であったのだ。世捨人として生きたいと願いながら、も一つ決心が付かないとは何事であろうか。

 世捨人に成り損なった半生を描く本書は、危険な本でもある。特に、就職前、モラトリアムを終わらせ現実の生活に目を向け地に足つけて生きていこうと思っている時に読むべき本ではない。
 主人公の生島はモラトリアムの大海を漂っているような男である。彼には生きる目標も、死ぬ理由もないような人間である。つまり、目的意識を持った、芯の通った人間を良しとする現代社会においては、歓迎されない種の人間である。社会不適合。彼は仕事を転々とする。
 しかし彼の生き方や考え方に、私の心は共鳴する。しかも共鳴しているところは、心の奥底に封じたはずのモラトリアムな部分である。私だって、なれるものなら世捨人になりたい。

 たしかに、社会が目的意識を持った人間を迎する理由もわかる。明確な目標を持ち、それに向かって邁進する、分かりやすいストーリーを持った人間は、私も好きだ。テレビや本の中でそのように生きている人を見るとすごいなと思う。しかしその敬意は、自分が決してそのように芯の通った生き方ができる人間ではないことの裏返しでもある。一種の劣等感と、器用に生きられない性癖なのは生まれつきだ仕方ないじゃないかという開き直り。そして、後ろめたさ。その後ろめたさは、社会に対してか、両親に対してか。
 これらの複雑な感情をこの小説は思い出させてくれると同時に、慰撫してくれる。私だけではない、という根拠のない安心感。

 でも、生島も私も実際には世捨人にすらなれないという現実がある。西行だって荘園を持っており、その上がりで食べていけたから「世捨人」になれたのだ。「世捨人になって飯を喰うて行くということそれ自体が、矛盾なのだ」。
 飯を喰っていきたければ、世の中の人として生きていかねばならない。
 とすれば、やはり、モラトリアムからは脱しなければならないのだ。

私小説的ビルディングロマン

 ダメ人間の話だけれども、読後感がすがすがしいのは、この物語が生島のビルディングロマンであるからだろう。長いモラトリアムからの脱出劇。ここには、モラトリアムの底なし沼から這い上がるまでの、人生の右往左往が詰め込まれている。世捨人を目指しているはずなのに、木島の人生は平坦からは程遠く、山あり谷ありである(いや、谷あり、そしてまた谷あり、か)。凄まじく、劇的な人生。でも、その中で彼はとある「気づき」を得る。その「気づき」は痛みを伴う。彼にも、そしてそれを読む私にも。しかし、彼は確実に変わっていく。ダメ人間の木島が、ほんの少し、逞しく見えた。

 もちろん、私「小説」なので、この物語は虚構だろう。それでも以前読んだ『赤目四十八瀧心中未遂』よりも、私小説っぽさ、自伝っぽさが強いように感じた(というか『赤目四十八瀧心中未遂』は私小説とは思わずに読んだ。読んでから著者が私小説作家と知った)。
赤目四十八瀧心中未遂』に比べ、切り出している人生の時間が長いからかだろうか。いや、ジャンル分けなどどうでもいいか。二作とも、私にとっては、痛くも面白い物語であった。車谷長吉、その底なし沼をもっと読みたい。

読書録

『贋世捨人』
著者:車谷長吉
出版社:新潮社
出版年:2002年

贋世捨人