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愛から自由になった世代へ ミシェル・ウェルベック『ある島の可能性』【読書感想】

人生2冊目のウェルベックは長編SF(SFといってもいいだろう)『ある島の可能性』。
久々に面白い本を読んだ、という気分になった。

恐ろしい本

この本は恐ろしい。テーマは愛、なんだろうなと思うが、そう簡単にまとめられる話ではない。

主人公が生きるのは、今から2000年後の世界だ。
主人公は一種のクローン人間であるネオ・ヒューマンの一人、ダニエル24および25である。
ネオ・ヒューマンは、それぞれに隔離された住居で、孤独に生活している。彼らは性行為を介せず、前の個体(例えばダニエル24)の死が確認されたら、科学的な処理によって、その次の個体(ダニエル25)がとある機関によって成人の姿で生み出される。そう、彼らは不死なのだ。
さらに彼らは遺伝子操作によって、独立栄養生物となっており、食事や排泄の必要からも自由になっている。性欲からも食欲からも、解放された彼らは、生きていくうえで他人を必要としない。金を稼ぐ必要もなければ、そもそも生きるために努力する必要もない。彼らは安全を確認されて住居で、プロトタイプとなった人間(例えばダニエル1)の≪人生記≫を読みその注釈をつけ、人生を送っている。そして予言された≪未来人≫が訪れる日を、平穏の中、待ち続けている。
いっぽうで、ネオヒューマンの元となった人間たちは、その自らの欲望により絶滅の危機に瀕している。2000年後を生きる彼らは科学や文明を失い、ネオヒューマンからは原人と呼ばれる。彼らは野蛮で、群れの維持のためには、老人を嬲り殺すことも厭わない。

物語は、ダニエル24および25の解釈と、それの対象であるダニエル1の人生記で構成されている。
ダニエル1は私たちが生きる世代の人間である。彼は人間であるので、欲望、特に生殖の欲望に囚われている。が、自らの加齢により、その欲望がもはや叶えられないことを予感している。
ダニエル1は社会的に成功した人物であった。一言でいえば金持ちだった。しかし彼の個人的な生活は、決して成功とはいえなかった。例えば彼は、妊娠したとたん彼の妻を捨てた。彼の愛した二人の女性のうち、一人は彼に性的な満足を覚えなかったし、一人は彼を愛さなかった。彼の人生記の後半は、老いの悲惨さについての記述が目立つ。

私たちは、常に若くあることを望んでいる。
若いころが最も幸せで、老いることは不幸なのだ。

ダニエル1は人間についてこのように認識している。
そして私はそれに反論することができない。

老いと死

お盆休み、実家に帰省していた。気づいたら、祖父はもう90歳手前で、両親も還暦が間近に迫っていた。
いつの間にか、両親の老いを笑えなくなってしまった。
不老不死なんて信じていない。しかし、肉親の死がリアリティーを持ったものであるということの実感もいまいちわかない。
きっと両親は死ぬだろう。
私も年老いていくだろう。生活のための金を稼ぐために朝八時から10時間以上を会社に拘束され、その後も家事やら友達同士の付き合いやらに時間をとられ、そのうちに社会的責任とやらは増え、気づけば顔と体にはしわやシミが増え、食事もセックスも楽しめなくなり、病気になり、こんなはずじゃなかったと思いながら死んでいくのだろう。
そこに幸せはあるか。

では、不死であるならば幸せか、とウェルベックは物語を通して問いかける。
否。
私はダニエル1と同じ結論にたどり着く。

結局、存在すること自体が不幸なのだ。

それでも、ダニエル1は一つの確信を心に抱く。

僕は、それでもあいかわらず(とはいえこれは純粋に理論としての話であって、自分に関してはすべてが終わってしまったのはよくわかっている。僕に残ったツキを無駄に使い果たしたのだ。僕はいままさに旅立ちのときにある。終止符を打ち、結論を出さねばならないときに来ている)、とにかくそれでも僕はあいかわらず心の底で、そしてあらゆる明証に反して、愛を信じているのだった。  (p442)


しかしネオ・ヒューマンであるダニエル25や、ダニエル1いわく「愛から自由になった世代」であるエステルと同世代であるだろう私は、「愛」というものの全体像がつかめずにいる。たぶん、これからもずっと。


ある島の可能性 (河出文庫)