私=人間=人形? 森博嗣『赤目姫の潮解』100年シリーズ最終巻!【読書感想】
森博嗣の100年シリーズに最終巻が出ていると知ったのは、恥ずかしながらつい最近のことだった。毎週のように図書館に通い、毎週のように森ミステリを借りていた中学生の頃が懐かしい。
最終巻は、もうとっくに文庫化もされており、本屋にも図書館にも並んでいる。単行本の発売は2013年だったらしい。
『女王の百年密室』『迷宮百年の睡魔』に続く、3冊目のタイトルは『赤目姫の潮解』。タイトルを見た際はシリーズものとは思わないかった。けれども文庫本の裏表紙には「これは幻想小説かSFか? 百年シリーズ最終作にして、森ファン熱狂の最高傑作!」とあるので、シリーズものなのだと理解した。
シリーズものであるということなので、いわゆるシリーズものだと思い読み始めた。
読み始めてすぐ、違和感。シリーズものというのは、つまり、前作までに出てきていた登場人物たちが活躍するものなのではないか。
この本には、前2作の登場人物たちは出てこない。時代背景まで違う。というか、今まで読んできた森作品のどれとも違う。
それどころか、今まで読んできたフィクションの中のどれとも違う。
なんだろう、この本。変。
登場人物たちの視点が入れ替わり、物語は物語として一本の糸が通っているわけでもなく、時代が変わる、国が変わる。戸惑いつつも読み進めるうちに、幻想的かつSFチックなガチェットに魅了されているうちに、本書のテーマへと物語は収斂していく。
「私は存在するのか」「私は人形にすぎないのではないか」。存在に関する、哲学的かつ原初的・肉体的な疑問を物語は私たちに問う。デカルトの「我思う故に我あり」である。中学生のとき、はじめてデカルトのこの考え方を知ったときのことを思い出した。中学生の私は「我思ったところで、本当に我はあるのだろうか」となかなか飲み込めなかった。
「私たちは、貴女が作った機械の中で、ただのデータとしてしか存在していない、ということですか?」
「そう思いたがるのが人間というもの、人間の頭脳という機能、思考というプログラム、という話をしたのよ」(p286)
今ふと、思ったのだが、私は森博嗣の使う「貴女」という言葉が大好きだ。
ところで『赤目姫の潮解』の文庫版の解説は、はてなダイアリーで『基本読書』を書いている冬木糸一さんです。普段ブログで読んでいる人の文章が、文庫本の中に並んでいるのを見るのは、なんだかとても新鮮でした。