読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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自分に足りていない能力について。【読書日記】

 森博嗣さんの新書を立て続けに読んだ。
 2003年初版ながら最近も新聞広告に載っていた『「やりがいのある仕事」という幻想』と2017年1月初版の『夢の叶え方知っていますか』という朝日新書である。
 自分には「やりがい」も「夢」もないんだけど、と軽く絶望しながら読んだのだけれども、読み終わって少し考えこんでしまった。
 何を考えたのか。
 もしかすると私には「自分を楽しませる」という能力が圧倒的に欠如しているのではないか、という仮説についてだ。

 著者の趣味は庭園鉄道である。中学生の時から『浮遊研究室』を読み込んでいる私には、著者がその趣味にかなりの時間を費やしていること知っていた。だが、その規模はどうやら想像以上のものだった。
 鉄道庭園のために副業(作家業)で稼ぎ、引っ越しをし、土木工事に励む。
 私は鉄道趣味がないので、その良さはなかなかピンとこないのだが、それだけ熱中できるものがあるということを、素直にうらやましいと思う。

 そう、私には熱中できるものも、目標とするものもない。

 人生の目標=人生の意義については、飽きるほど考えてきた。
 人生の意義を問うのではない、私たちは「人生から問われてる」(byフランクル)って言われても、言われたその場は納得できた気がしても、やっぱり心の底で納得できない。

 私は人生を失敗した、と毎日のように思っていた日々を克服できてはいないし、何といっても毎日はつまらない。
 積極的に死にたいとは思わないけれど、取り立てて生きたいとも思わない。
 特に何をするでもないけれど、ただただ遠くに行きたいなあと思う。現実逃避。逃避するほどの現実はあるのか。

 客観的に見れば幸せな状況にあると思う。住む場所も食べるものも、働く場所もある。離れて暮らしてこそいるが家族も元気だし、友人もいる。これ以上何を望めばよいのだろう。
 でも、主観的には、まったくもって、毎日が楽しくないのだ。

 これは何が悪いのか。
 どうすれば私は「辛い」と感じずに生きられるのか。

 と、考えたところで、私には「自分を楽しませる」能力が圧倒的に不足しているのではにか、という仮説に至った。
 何をやっても楽しくないのは、自らを楽しませようとする積極性が足りないからではないか。

 『夢の叶え方を知っていますか?』の中に「楽しさは買うものだろうか?」という段落がある。

現代人の多くは、「楽しさ」というものは、人からもらうものだと考えている。否、考えているのではなく、ぼんやりとそんなふうに感じているのだ。

 楽しさは、誰かが作ってくれるものであり、自分は商品を探せば良い、と考えている。

 毎日が楽しくない、と思うのは、「楽しさ」というものは誰かから与えられるものだと思い込んでいるからではないか。
 私の人生を楽しくするのは、「楽しい環境」ではなくて、私自身がどのように人生を過ごすか、ということにかかっているのだ。

 自由とは、自分が思った通りに行動することだ。これは僕の自由の定義である。まず思うこと。つぎにそのとおりに行動すること。すなわち、夢を実現させることは、自由を獲得する行為なのである。

 私は、もっともっと自由に生きることができるはずだ。