読書録 地方生活の日々と読書

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一人称で語るお前、お前は誰だ…? 神林長平『絞首台の黙示録』【読書感想】

ある日の仕事中、本を買おうと思い立った。ストレスがたまっていた。ストレスの溜まると本屋に行きたくなる。
ストレスというのは仕事だけが原因では無いことは、薄々わかっていた。人生に対する不全感。あーなんでこうなるんだろうなぁ自分の人生。何がやりたいのか分からない。環境が変われば何か分かるのかもしれないと思って、結婚したり転職したりもしたけれども、結局分からず。
もちろんこの不全感は本によって救われることでは無い事は承知している。
しかし少なくとも本に集中している間は嫌なことを忘れられる。最も、最近は集中力がびっくりするほど低下しており、好きなはずの本にすら集中することができないという悩みも抱えているのだか。

閑話休題
仕事帰りの本屋。そこで見つけたのがこの本である。新刊本が並ぶ平台の上に1冊だけあった神林長平の絞首台の黙示録。神林長平はSF作家と言うイメージが強かったのだが、(事実日本を代表するSF作家だが)、その文庫本カバーの表紙から推測するに物語の舞台は現在日本のようで、裏表紙の紹介文を見ても現在もののようであった。そこに惹かれた。彼の書く現代劇がみてみたい。少し前に神林長平の第一長編『あなたの魂に安らぎあれ』を読んだことも影響しているかもしれない。

帰宅してから早速読書。面白かった。一気に読み終えた。人生に対する不全感だって、どうでもよくなるくらい。

物語の場面は死刑執行のシーンから始まる。一人称で書かれており、どうやら主人公の俺はどうやらこれから絞首刑を執行されるらしい。
冒頭のシーンを読んで、なぜかドグラ・マグラを思い出した。あの小説は、時計の鐘の音とともに、精神病院の閉鎖病棟の中で、主人公が目覚めたところから始まったはずだ。
ドグラマグラの彼は記憶を失っていたはずだ。だが、この本の主人公乗れば記憶を失ったわけではない。どうやら彼は自分が受けるべき刑罰を十分に承知しており、自分が死刑になるのは当然だと理解していた。しかし頭では死刑のことを理解していても、自らの死を前にした体は正直だ。彼の身体、そして意識は叫ぶ。死にたくない、殺されたくない!
読みながらドキドキした。死にたくない、殺されたくない、死刑になんかなりたくない。彼にどっぷり共感した。
冒頭の場面ではなぜ彼が死刑になるのか、彼が何を犯したのかわからない。彼は冷静で、祈祷師の前で、理屈によって神を否定してみせたりもする。しかしいくら冷静に納得してみようとしても、恐怖は恐怖である。だからこそ読んでいて怖かった。
そして、その恐怖に対する読者の共感が、この物語の一つの伏線となっている。


さて。俺は死刑になった。しかし物語は続く。場所が変わり一人称の主人公が入れ替わり、物語は混乱していく。

ここから怒涛の展開だったが、舞台は新潟の一軒家の中、と、舞台装置はなかなかに平凡だ。しかしそこはやはり日本SFの大家、神林長平。彼の仕掛けた仕掛けが一筋縄ではいくわけがない。

物語と事象はどんどん複雑になっていき、結局、誰が存在するものなのか、この意識はいつの意識なのか分からなくなっていく。
SFと言えばお馴染みのクローン技術やら平行世界やらが複雑に絡みあい、そこに人間らしい感情や思考、そして動物としての人間のリアルな肉体感覚などが色彩を添えながら物語は進んでいく。
感情移入しながら読んでいた登場人物が実在しでいなかった、といった驚きも待っていたりする。ああ、存在って何だ?

お前は誰だ。
この物語を表す一言は、これだろうと思う。この小説は、これは意識と存在をめぐる一大スペクタルなのである。意識があることの不思議、存在することの不思議、なぜ私はここにいるのか。
思えばずっと、神林長平は常にそのことを私たち問うてきたのかもしれない。

とても刺激的な読書体験であった。おすすめ。家にはまだ何冊か未読の神林長平の文庫本がある。これらも早く読まないと。不全感に悩み、ネットの海で貴重な時間を浪費していてもしょうがない。世の中には私が出会っていない面白い本がまだまだある。