読書録 本読みの貪欲

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ディストピア小説を読む2 ユートピアとしての『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー【読書感想】

 ディストピア小説として名前だけは以前から知っていたすばらしい新世界。19世紀生まれのイギリス人作家、オルダス・ハクスリーによるSF小説である。1932年の作である。この度、光文社古典新訳文庫で読みました。訳者は黒原敏行さん。
 


 工業化が進んだ2540年、ついに人間が工場〈孵化・条件づけセンター〉で生産されて生まれるようになった世界。人間は計画的に生産され、彼らの身分は、細胞分裂の段階から決まっている。労働者階級となる受精卵はボカノフスキー法に分裂させられ、一つの卵が数十人の人間となる。規格化された人間は、規格化された工場で、規格化された労働に励むのだ。しかし彼らは幸福である。彼らは孵化器のなかで、過酷な環境に耐えられるようにデザインされているし、生まれてからは「今は誰もが幸せだ」と条件づけされるからだ。そして労働のあとには、すべての憂鬱を晴らせてくれるソーマが支給される。「鬱かなと思ったら早めのソーマ」、「一〇グラムは一〇人分の鬱を打つ」、「うらむより一グラム」、不安や怒りといったマイナスな感情はすべてソーマが解決してくれる。

 こんなユートピアに、何故だか疑問をもってしまった男バーナードが、恋人のレーニナと共に、ニューメキシコ居留地に「野蛮人」を見に行くところから物語は動き始める。世界には文明化から見捨てられた土地が残っており、そこでは昔ながらの習慣と劣悪な衛生環境と文明社会では廃れてしまった宗教と共に生きる人々が住んでいるのだ。バーナードはそこで、居留地に生まれた一人の青年にジョンに出会う。ジョンの母親は、孵化・条件づけセンター生まれの人間だったが、不幸な事故により妊娠中に居留地に取り残されてしまったのだ。居留地で生まれたジョンは文明社会を知らなかった。バーナードはジョンと彼の母親を文明社会であるロンドンに連れ帰ることにしたのだがーー

喜劇的なユートピア小説

 古典SFという印象があり、読みにくいのかなと思っていたのだが、まったくそんなことなくスラスラと読めた。ディストピア小説といえば、シリアスな雰囲気をもつ小説が多いが、この物語は全体的にどこか喜劇的である。私たち読者は、物語の登場人物たちを俯瞰的に追うことになる。洗練された人間であるはずの登場人物たちの絶妙な滑稽さを客観的な視点で見ることになる。彼らは私たちとは根本的に違うので(私たちは孵化器から生まれたわけでも、睡眠学習によって条件づけされたわけでもない)、彼らに感情移入はしにくい。だからこそ彼らの生きる世界や彼ら自身を、劇場にいる観客のような視点で見ることができるのだ。またレトリックや標語、そしてシェイクスピアの引用が多いので(非文明社会から来たジョンは、文明社会が捨て去った文学作品であるシェイクスピアの熱心な読者だったのだ)、それも劇的に感じる要因かもしれない。
 喜劇はテンポよくすすみ、そしてまさかと思うような結末を迎える。唐突なようにも思える終わり方だ。シュールであり、悲惨であるはずなのに、どこか滑稽な事件が起こり、それで幕引きだった。

 さくっと読める小説だが、世界観のディテールがとても示唆に富んでいる。
 この小説はディストピア小説というジャンルであるが、現代社会で溺れそうになっている私から見れば、その小説世界はユートピアに思えた。その世界には病老死苦のうち、病と老と苦が克服されている。医療は発達し、老いの進行は抑えられ、人間は六〇歳でポックリと死ぬ。その死も、条件づけによって「死=恐怖」という図式からは開放されている。苦痛にはすべてを解決してくれる精神薬ソーマがある。ソーマによって人は寛大になるので、そこには人間関係の煩わしさもない。恋愛は推奨されており、性による快楽を得るための団結儀式も隔週にある。消費だって美徳である。
 そして何より、私が、かの世界の住民を羨ましく感じてしまうのは、将来の不安から解放されているということだ。生まれたときから階級と仕事が決められているのだ。選択肢は与えられないが、それを不満に思ったり自分の可能性を追求したいと考える回路は、生まれたときから存在しないように出来ているので問題ない。彼らを羨ましく思うのは、私がこの自由溢れる世界において、未だに自分の進むべき道を確信できていないからだ。将来は不安でしかない。
 このように考えると、この世界の生きにくさとは、先が見えないということと正解が分からないということに収束するのではないか。私たちは、未来も現状もよく分からない世界に生きていて、それでも自分で自分の人生を決断し、生きていかなければならない。その重みにふと疲れてしまったときに、この物語世界は文字通りの「すばらしい新世界」として浮かび上がってくる。

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)


以前に読んだディストピア小説。『侍女の物語』の読書感想。
dokusyotyu.hatenablog.com