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無意味な人生を送るすべての人々へ 『タタール人の砂漠』(ブッツァーティ著)【読書感想】

 〈時の遁走〉がテーマのイタリア発の長編小説タタール人の砂漠』(ブッツァーティ著)を読みました。
 時の遁走、光陰矢の如し、少年老い易く学成り難し、後悔先に立たず、といった言葉を文学の形にすると、このような美しい物語になる。

 主人公ジョヴァンニ・ドローゴは、北の国境を守備するための砦に配属された若い将校である。その砦の先には遙かなる砂漠が広がっており、その幻想的な風景からタタール人の砂漠と呼ばれていた。砦は、昔は戦略上重要であるされていたが、広大な砂漠を前に攻めてくる敵はおらず、現在は老朽化し、忘れ去られたかのようにひっそりと佇んでいる。そしてそこでは、兵士や将校たちが、いつか攻めてくる「はず」の敵を待ちながら、変化のない日常を過ごしていた。いずれ敵が攻めてきた時には、立派に立ち回って、栄光を手にするのだという野心を秘めながら。
 ジョヴァンニには、その辺境にある砦とそこでの生活を、はじめは嫌悪し、すぐにでも配属替えを願おうと思う。しかし上官から4ヶ月だけ勤めてくれと説得され、しぶしぶそれに従っているうちに、その代わり映えのない砦の生活に慣れきってしまう。そして〈時の遁走〉が始まるのだった。

 何も起きない人生、ただただ、有るか無いかも分からない栄光の一時を待つだけの人生を主題にした物語であるので、その物語のなかでも目立った事件はほとんど起きない。ジョヴァンニが送った砦での生活の中で起こった出来事といえば、隊から離れた兵士が誤って味方に撃たれてしまったということと、国境確定任務の際に一人の将校が凍死してしまったということぐらいである。
 あとは決まりきった監視業務の毎日であり、そこに敵の気配はない。同じような毎日を過ごすなかで登場人物たちは歳をとり、あるものは定年退職し、そして代わりに新人たちがやってくる。

 この本は恐ろしい本である。とあるページをめくり、次の章へ入る。と、小説内では年単位の時間が流れ、青年は歳をとり中年になっている。一瞬で歳をとっている。その間、彼の身には何も起きなかったのだ。そして、その「あっという間さ」というのは、私自身の人生についても当てはまる。ふと振り返ると、あっという間に歳をとっている自分がいる。つい先日、20歳の誕生日を迎えたばかりな気がするのに。
 そして気づく。主人公ジョヴァンニが送る人生、人生のドラマが動きだすのを待っているうちに終わってしまった人生は、私が送る人生そのものである。もし、砦の中で一生涯を過ごしたジョヴァンニを不幸だというのであれば、私も同じく不幸な人間である。
 ジョヴァンニは確かに無意味な仕事に人生を費やした。しかし、この世界に無意味ではない仕事なんてあるのだろうか。そもそも私達の人生は根本的に無意味ではないか。私達は人生が無意味であることを知りながらも、なんだかんだと言い訳を考えては、そのことを無視しようとしているだけなのではないか。
 そしてどこかで待ち続けているのではないか。私は何者かであり、私の人生は決して無意味ではなかったということを確信できるような出来事が起こってくれることを。

 ジョヴァンニは、そして私は、どうすれば良かったのか。
 どうすれば砦から外に出ることができたのか。あるいは、どうすれば砦の中で幸せな生涯を送ることができたのか。
 
 砦に暮らす人々は、ついに、自分の人生の無意味さに向き合うことができなかった。攻めてくるかもしれない敵の幻想を、幻想として直視することができなかった。もしもその幻想――タタール人が今にきっと攻めてくるに違いない、そしてその時自分は祖国を守る英雄となるはずだ――を捨て、自分がただの一兵士、重要度の低い任務に割り振られてしまったちょっと運の悪い兵士であることを直視することができたのであれば、砦から出ていくこともできたのではないか、と思う。

 もちろん自分の人生の無意味さに向き合うことは辛いことである。自分が何者でもない、ただの一個人、七十億人もいる人間の一人に過ぎないことを認めることは難しいことである。この世に生きる無意味さと自我との間に、どのような折り合いをつけたらよいのか、まだ私も試行錯誤しているところである。
 しかし、自分は何者でもなくこの人生は無意味である、ということを認めると、次のような問いが立ち上がってくる。無意味なこの人生において、何者でもない自分は、この人生を使って何を為すのか。この人生は無意味である、だからこそ、何を行うのかということが問われている。
 この問いに答えるとき、私は真の主体性を取り戻すだろう。そんな予感がしている。

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)