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人類のその先へ 『幼年期の終わり』(クラーク著)【読書感想】

 SF小説の金字塔のひとつ幼年期の終わり』(クラーク著)を読みました。言わずと知れた超有名作で、SF初心者の私もタイトルはずっと以前から知っていた。今年の年頭に有名なSF小説『星を継ぐもの』(ジェイムズ・P・ホーガン著)を読んだところ非常に面白かったので、同じくらい有名である本作を手にとったのである。
 著者はイギリスのSF小説アーサー・C・クラーク。映画でも知られる2001年宇宙の旅の著者でもある。私は今回、池田真紀子さんの訳による光文社古典新訳文庫にて読んだ。この小説自体は、1953年に発表されたものであるが、冒頭部分は1990年に著者自身の手により書き直されている。光文社古典新訳版では、こちらの1990年に書き直された新版を底本にしているとのこと。また本書の「まえがき」には書き直し部分についての著者自身の見解が示されており興味深い。

今日の読者の大部分が、一九五三年八月二十四日にバランタイン社から初版が刊行された当時、まだ生まれていなかったに違いない。初の地球衛星が打ち上げられたのはそれから四年後だが、誰より楽観的な天文ファンでも、まさかそれほど早く実現するとは夢にも思っていなかった。二十一世紀を迎えるまでに現実になれば万々歳くらいに考えていたのだ。

しかし、アームストロングとオールドリンが「静かの海」に降り立ち、アメリカがソ連との宇宙開発ーー『幼年期の終わり』のオリジナルの第一章はこれをモチーフにしていたーーに勝利をおさめたとき、この本の刊行からはすでに十六年が経過していた。そこで私は、物語の舞台を次世紀に移すことに決めた。

 我々はSFの想像力を越えた未来を生きているのだ。
 だからといってこの物語の魅力は全く色あせていない。実際に、二章から先は「初版当時の『幼年期の終わり』のままである」が、そこに描かれた世界を私は夢中で読んだ。


 ある日、地球の主要都市上空に宇宙船が突如現れたところから物語は始まる。宇宙船の主たちであるオーバーロードたちの狙いは何か。そして宇宙には自分たち以外の種族ーーしかも自分たち人類よりも高度な知性と能力をもつ種族ーーが存在することを知った人類はどこへ向かうのか。

 本全体は三つの部で構成されている。オーバーロードたちが出現したすぐあとの世界を舞台にした第一部「地球とオーバーロードたち」。その五十年後、オーバーロードたちによる支配が完了した第二部「黄金時代」。さらにその後、人類たちが新たなステージへと進みだす様子を描き出した第三部「最後の世代」。
 個人的には、オーバーロードに支配されたあと、彼らの高度な管理能力によりユートピア的世界を享受することになった人類社会を描く第二部を特に面白く読んだ。最近、ユートピア小説やディストピア小説をいくつか読んでいるのだけれども、本書で描かれるユートピアはなかなか居心地が良さそうである。平和で差別のない世界、自ら望まない労働から解放された世界。
 しかしこの物語の主眼は、現在地球上において、あたかも絶対的な支配者のように振る舞っている人類が、宇宙全体からみれば能力が高いとはいえない一つの種族に過ぎなかったという転換にあると思う。この宇宙全体からすれば、人類はちっぽけな存在に過ぎない。その事実をこの小説は戯画的に示しているようにも思える。
 それから人類の向かう未来はどこにあるのかという問いに、SF的な想像力をもって著者が提示した答えがなかなかに凄まじい。この答えが示される第三部後半は、それまでの部分とは少しテイストが異なる。幻想的なイメージが全面的に溢れ、第三部のタイトル通り現在の人類としては「最後の世代」になった人々、そして地球自身の行く末を描き出している。
 
 後読感はとても不思議なものであった。個人の自意識を越えたところに存在するかもしれない、種族の夢、種族の悲しみというものについて漠然と思いを馳せた。私は人類というひとつの種族の末裔である。この世に生まれてしまった悲しみというものは、個人だけではなく、人類全体として受け止めなければいけないものなのかもしれない。

 この本を読みながら、以前に読んだミシェル・エルベック『ある島の可能性ウラジーミル・ソローキン『23000』を連想した。これらも人類のその先を描いた物語である。いずれまた読み返したい。

dokusyotyu.hatenablog.com
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幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

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