読書録 地方生活の日々と読書

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『ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤』(コーマック・マッカーシー著)【読書感想】

 4月。年度が代わり、陽気は春めいてきた。しかし世界では引き続き新型コロナウイルスが猛威を奮い続けている。日本でも感染者は三桁の日が続いているが、一方で非常事態宣言はまだ出ていない。私は今のところ普段通りの生活を続けている。平日は仕事へ行き、休日は近所のスーパーで買い物をする以外は、引きこもっている。
 引きこもりに寄り添ってくれるのは、やはり本たちである。他の人はこのような状況の中、どんな本を読んでいるのだろうか。私はシオラン『生誕の災厄』、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』、そして、コーマック・マッカーシー著『ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤』を読んで、今週をやり過ごした。

『ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤』

 著者であるコーマック・マッカーシーさんの小説は、以前ザ・ロードを読んだことがある。突如荒廃してしまった世界を、生き延びてしまった父子が食料を求めて南へと向かう逃避行を描いた『ザ・ロード』。数年前に読んだものだが、その印象は未だに強い。文明崩壊後に顕われた暴力に溢れた弱肉強食の世界を著者は乾いた筆致で書き上げていた。

 本作でも著者独特の筆致ーー内面描写されない登場人物たち、カギかっこなしで書かれる会話文、読点なしの長文で描かれる風景描写ーーが、物語に独特の色を添えている。物語の舞台は19世紀半ば、米墨戦争後のアメリカ南西部からメキシコ北西部。荒野が広がり、自然は厳しい。主人公は14歳で家出した少年。彼が放浪の末、メキシコにてインディアン討伐隊に加わり、虐殺の日々、人を狩ってあるいは狩られてを繰り返す日々を送るという物語だ。物語全編において暴力が溢れており、簡単に人が死んでいく。喧嘩で、病気で、虐殺で、あるいは縛り首で。読んでいるうちに、いつまでこの暴力描写は続くのだろうか、自分はいったい何を読まされているのだろうかという気になった。が、その暴力描写は、物語終盤まで延々と続いた。
 少年が加わったグラントン大尉率いる討伐隊は、インディアンの襲撃に悩まされているメキシコの各州の知事からインディアンの頭皮1枚につき、100ドルの報償金をもらうという契約をしている。彼らは敵対的なインディアンたちの頭皮を剥ぐだけではなく、平和的に暮らしているグループや女子供も関係なく虐殺して頭皮を剥ぐ。遂には通りがかったメキシコ人の村も襲い、その住民も虐殺し皮を剥いだ。討伐から戻った彼らは英雄として迎えられるが、乱痴気騒ぎを繰り返しては、その都市には居られなくなってしまい、見送りもなく次の都市へと向かうことになる。
 この討伐隊が恐ろしいのは、その目的が暴力自体にあることだ。確かに彼らは頭皮と引き換えに金を得ているが、金稼ぎ自体を目的としているようにはみえない。彼らにはイデオロギーもなく、名誉や、ましてや住民の平和な生活を求めているようにもみえない。暴力をふるう、そのために、他者を虐殺しているようにみえる。そしてその為には、ボロボロになって何週間も荒野を彷徨い獲物となる村を探すことも辞さない。
 虐殺のために砂漠地帯を放浪するなんて辛いだろうに、平和的に街で暮らす方が絶対楽だろうに、と思いながら読んでいた。正直なところ、この暴力を希求する気持ちはよく分からない。しかし、著者がこの物語で書き出したのはまさしく、この暴力を求めてやまない人間性自体である。

 この物語にはその人間の暴力性の極北ともいえる人格を持った人物が出てくる。ホールデン判事と呼ばれるその人は、2メートルを超える巨大に、体毛が一本もないという奇妙な外観をしている。力が強く博学で、乗馬とダンスとフィドルの名手である。そして虫を殺すように人を殺す。また他人を暴力へと唆す。ブライトン隊の一員であるが、隊の中でも独特の地位を占め、ブライトンの相談役として存在感を放っている。また常に記録簿を持ち歩き、旅の途中で見つけた過去の遺物や化石をスケッチしている。そして記録した後、遺物を焼き捨てる。彼は自分の知らないものが存在しているのが許せないという。判事の振る舞いは自らが神であるかのようである。彼は何を判じるのか。
 他者を意のままに扱うこと、神として振る舞うこと、暴力的であること。それらがイコールで結ばれた悪の化身の人間であるホールデン判事であるが、その他方の極として主人公の少年は置かれている。少年は、何事も判じない。ただその目で世界を見つめる。

 その少年の在り様が端的に表れているのが物語の冒頭である。物語は、次の一文から始まる。

 この子供を見よ。

 私は『白鯨』の冒頭を思い出した。そして白鯨の冒頭部、

 わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。

という言葉が、聖書のパロディであることを思い起こした。イシュメールは、白鯨との死闘を生き延びその物語を語ったが、この『ブラッド・メリディアン』の少年は何も語らない。ただ全てを、暴力に溢れたこの世界を見届ける。
 そしてその少年の在り様を、著者は、絶対的な暴力に対抗し得るものとして描き出した。

 私は今、その意味を考えている。