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『迷宮百年の睡魔』(森博嗣著)【読書感想】

今週のお題「読書感想文」

 森博嗣さんの長編SFミステリ、女王シリーズの二作目迷宮百年の睡魔を再読しました。
 これがなんとも捉えがたい一冊で、うまく感想文が書けそうにない。

 前作と同じく人間のミチルと初期型ウォーカロン(ロボット)のロイディのバディが主人公。ジャーナリストのミチルは、長年外部からの取材を断っている自主独立の島イル・サン・ジャックを訪ねる。その島の王宮モン・ロゼで出会った女王メグツシュカは前作女王の百年密室で出会ったルナティック・シティの女王デボウの母親であるという。そして起こる殺人事件。ミチルとロイディは否応なく事件に巻き込まれていく。

 四季シリーズWシリーズを繋ぐミッシングリングのような一冊。Wシリーズは単体でも読めるが、いわば本書のネタバレ、いや答え合わせともいえるような物語となっている。特にWシリーズ8作目『血か、死か、無か』にはメグツシュカ、ミチル、アキラ、ロイディといった名前が、過去の事件の人間としてだが、しっかりと出てくる。また『女王の百年密室』と『女王百年の睡魔』との繋がりも別視点から見ることができる。そもそもメグツシュカが何者か、主人公のミチルが何者であるのかといったことも明かされるので、本書『女王百年の睡魔』を読み、彼らの関係が気になった方は是非Wシリーズを読んでみてほしい。私も読み返したくなってきた。
 女王シリーズの3作目『赤目姫の潮解』との繋がりももちろんある。『赤目姫の潮解』で個人的に最も印象的であった砂のマンダラのシーンがこの物語では、殺人事件の現場を彩っていた。他にも一夜にして森が海になり、海が砂浜になるといった幻想的ともいえる風景は、『赤目姫の潮解』の非現実的な風景を彷彿させる。

迷宮百年の睡魔』を読む。

 『迷宮百年の睡魔』はもちろん単体の物語としても読み応えがある。前作『女王の百年密室』に比べるとSF色が強く、ミステリ色が薄い。抽象度が上がっている。前作にはあった宮廷の見取り図も本作にはない(本作の舞台は「迷宮」でもあるし)。
 前作のテーマが「生きているとはどういうことか」ということであるとすれば、本作のテーマは「人間であるとはどういうことか」ということである。いわゆる「水槽の脳」の思考実験を、ウォーカロンやクローンといったアイテムを交えつつ描き出したのがこの物語である。
 人間の本質とは何か。
 頭脳か、それとも肉体か。あるいは両方がそろっている必要があるのか。
 オリジナルである必要はあるのか。オリジナルな人間とクローンの人間に違いはあるのか。
 自然に生まれたことが必要なのか。人工的に生まれることは不自然なことか。自然と人工の違いはどこにあるのか。
 百年後の未来を舞台にしたSF的世界は、「人間とは何か」という一見明確な問いのグレーな部分を明確にして私たちに迫る。
 人間によって作られたウォーカロンと同じく人間によって作られたクローン。しかし、いわゆる「普通の人間」である私たちも、人間によって作られ、人間による学習を受けて人格が形成されたことにかわりはない。
 個々人の人格を規定するのは、感情だろうか、あるいは思考だろうか。肉体がなければ感情が生じることはないのだろうか。肉体があればウォーカロンも感情を覚えるのだろうか。人間らしさは学習に過ぎないのだろうか。それとも生来的な何かがあるのか。 

「よろしい」彼女は手を伸ばし、僕の手を取った。「良いですか? 私があなたに言えることは、ただ一つ」メグツシュカは僕に顔を近づける。「人間としての誇りをもちなさい、ミチル」

 
 「人間であるとはどういうことか」を問うことは、「生きているとはどういうことか」を問うことにも繋がっている。
 一つ浮かんできたのは「変化」という言葉だった。不変であるということは、死んでいることと同じことだ。生きている限り、人間は否応なく変化していく。
 だから、ミチルとロイディの関係は前作とは変化しているし、またこれからも変化するであろう。彼らがイル・サン・ジャックを訪れたことで、平穏で変化の乏しい島では事件が起こり、島民は自ら考えることを始めた。そして事件の結末を見届けた彼らは島を去り、私たちが知らない世界へと旅を続ける。
 人間であるということは、常に変化し、変化を感じ、そのことを考え続けることなのではないか。
 そんなことをぐるぐると考えた読書体験であった。


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