読書録 本読みの貪欲

地方在住三十路女の読書日記。趣味が読書と言えるようになりたい。本のほかには犬と魚が好き。

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挫折本を読み返す。ヴィクトール・ユゴー著『レ・ミゼラブル』(西永良成訳)

 「ところが、アンジョルラスには女がいない。彼は恋をしていないのに、勇猛果敢になれる。氷みたいに冷たいのに、火みたいに壮烈になれるなんて、これこそ天下の奇観というもんだぜ」
 アンジョルラスは聴いているようには見えなかったが、もしだれかがそばにいたら、彼が小声で「祖国(パトリア)だよ」とつぶやくのが聞こえたかもしれない。


 挫折本を再び手に取り、そして挫折せずに読み通すために必要なものは、暇と勢いである。今回のレ・ミゼラブル読破への再チャレンジでつくづくそう思った。

 私は『レ・ミゼラブル』という物語をトム・フーパー監督ミュージカル映画で知った。この映画は当時の私にとっては大きな衝撃で、気がつけば映画館で3回観て、DVDを購入し、サントラを延々と聴いていた。
 原作にもすぐに興味を持った。まずはミュージカルの元になっているとされるポール・ベニシュー氏監修の短縮版(永山篤一訳)を買った。角川文庫で上下二冊。これはこれでボリュームがあるが、面白くて一気に読んでしまった。映画で省略されていた人間関係(テナルディエの子どもたち)などが描かれており、満足感を覚えた。
 それからしばらくして、やはり完訳版も読んでおくべきではと思ったのかなんなのかは忘れたが、完訳版に手を出した。古い訳のものは著作権が切れ、電子書籍で安価に読めることに気づいたこともきっかけだったと思う。
 そして挫折した。意外と途中までは順調に読み進めていた。悪名高いワーテルローの戦いのシーンも面白く読んだ。墓場のシーンなど、短縮版では飛ばされていたシーンも読めた。が、マリユスが登場しコゼットと恋に落ちた辺りで挫折してしまった。特にこれといった理由はなかったと思う。自然と本を手に取ることがなくなり、そのまま物語世界から離脱した。とにかく私は挫折したのだ。

 一昨年にモンテ・クリスト伯、昨年にアンナ・カレーニナを読了し、次に何を読もうか思案していたところ(趣味読書のなかでも楽しい時間のひとつだ)、ふと『レ・ミゼラブル』のことが思い浮かんだ。調べてみると、新しい版が出ていた。しかも訳者は西永良成さん。西永さんが訳された本(ミラン・クンデラ著『冗談』)を読んだばかりの時だった。西永さんの訳は読みやすく、これなら挫折経験のある『レ・ミゼラブル 』も読めるのではないかと思った。
 西永訳の『レ・ミゼラブル 』はまずはちくま文庫、ついで、平凡社ライブラリーから出版されている。目前に正月休みが迫っていた。私は平凡社版を手に入れた。
 

再度挫折しそうになった

 本は2020年の年末から読み始めた。そしてさっそく挫折しそうになった。読めども読めども、主人公のジャン・ヴァルジャンが出てこない。「正しい人」であるミリエル氏の話が延々と続く。主人公の登場までは結局、100ページほども読み進まなければならなかった。大いなる前日譚である。それでも読み続けなければ、再度挫折してしまう。そう思い、出来るだけ他の小説本を途中に挟まず、ひたすら『レ・ミゼラブル』の世界に浸った。
 ストーリーだけを追っていく読書に慣れきってしまっている私には、なかなかにつらい読書経験だった。読みながら、短縮版が作られるのも納得だなと思った。時々、何を読まされているのだろうか、と疑問にすら思った。ストーリーにあまり関係のない修道院の歴史やそれに対する著者の見解が長々と述べられていたりする。物語が最高に盛り上がった直後に、パリの下水道の歴史についての講釈が始まったときには、つい笑いそうになった。
 すべての伏線が著者によって丁寧に解説されるのはいいが、現在の小説ではあり得ないだろう冗長さに辟易してしまったところもある。本筋のストーリーよりも長い、町や歴史の説明や政治的見解、実際の地名や人名を挙げての著者の主張。著者はこの本で何を伝えたかったのかと考えると、とたんに分からなくなる。 
 

悲惨な人々

 少なくとも著者が描きたかったのはストーリーだけではないだろう。映画では『レ・ミゼラブル』は一人の徒刑囚でありヒーローであるジャン・バルジャンの物語だが、この小説で著者が描きたかったのは一人の男の更生と償いのストーリーではないだろうと思う。この本の題名はなんだ。『レ・ミゼラブル』である。この訳の版では「悲惨な人々」と訳されている。著者が描きだしたかったのは、この社会に存在する「悲惨な人々」であり、その「悲惨な人々」を内包する社会そのものなのだろう。

 この物語に登場する人物たちは、みなどこか独善的で、共感しきれないところがある。そしてその完璧とは言い難い部分が、一人ひとりを魅力的にしている。映画版に比べるとマリユスはだいぶ薄情な人間に思えるし、コゼットもただ純粋なだけではないところがある。
 登場人物はみな「悲惨な人々」という言葉に内包される。貴族階級の人間はほとんど登場しない。19世紀の他の有名小説、例えばフランスを舞台にした『モンテ・クリスト伯』やナポレオン戦争期を舞台にした『戦争と平和』に繰り返し描かれる上流階級の人間による晩餐会は一度も出てこない。著者の目線は、常に民衆に向けられている。民衆の姿を、過度に理想化することも、侮蔑することもなく描き出している。
「悲惨な人々」というが、しかし、彼らの人生が決して、悲惨で可哀そうなものであるだけではないことも著者は描き出す。それはもちろん貧しい農村に生まれ、パンひとつで徒刑囚とされたジャン・ヴァルジャンの数奇な人生と彼の最後を見れば明らかだが、テナルディエの子どもたちがそれぞれ辿った運命にもそのことがよく表れていると思う。エポニーヌは報われない愛の前に命を差し出し、ガヴローシュの逞しさは下の弟たちに引き継がれた。彼らの存在を通して、著者が書き出したのは人生の「悲惨さ」ではなく、人間に対する「希望」である。
 著者が描いた「希望」、19世紀のパリの民衆が手にした「希望」は確かに人々に伝わり、アンジョルラスたちの「革命」は挫折したが、彼らの希望は少しずつ社会を変え、時代を越え国を越え、私が住む社会へと連綿と繋がっている。相変わらず世界は「悲惨」だが、それでも私たちは「進歩」の途上にあるのだ。

 そしてこの『レ・ミゼラブル』、読みにくい部分は確かにあるが、一方でストーリーが進む部分はものすごく面白い。主人公ジャン・ヴァルジャンはしょっちゅう危機に陥り選択を迫られるし、彼を追い詰める悪役たちも個性豊かに物語を盛り上げる。
 読書中、私の頭の中では、映画『レ・ミゼラブル』のサントラがひたすらに流れていた。小説を読み終わった今、とりあえずもう一度、映画のDVDでも見ようかなと考えている。