『くるまの娘』(宇佐見りん著)【読書感想】
以前から気になっていた本を手に取った。宇佐見りん著『くるまの娘』。表紙の絵は、メリーゴーランドと顔のない女子高生。題名と合わさってどこか不穏な雰囲気をまとう一冊だ。
宇佐見りんさんの本を読むのは、芥川賞受賞作の『推し、燃ゆ』に続き2作目。『推し、燃ゆ』は、「推しが燃えた」という言葉から想像されるインターネットの有象無象に右往左往するような可笑しみのある話なのかと思いきや、「依存」をテーマにしたひたすらヘビーな物語で驚いた。そして驚くと同時に、どこか消化しきれないモヤモヤ感が後に残った。
今回読んだ『くるまの娘』も同じようなモヤモヤとした読後感が後に残る物語である。
読み始め、この物語はヤングケアラーの話なのかなと思った。
昔、母は気丈だった、とそのときかんこは思った。病気以降、一変し、泣き出すことが増えた母を励ますのが自分の役目だとかんこは思っていた。
読み進めてまもなく、そうではない、と思った。
暴力を振るう父と子どもの話でもない。家族を見捨てて家を出た兄と残された妹の話でもない。虐待の連鎖の話ではない。失われた過去を取り戻す話でもない。
では何の話なのかと問われると、うまく答えられない。
『くるまの娘』は、祖母の葬儀に、家族(父と母と三人の子供)で参列する物語である。筋だけ追えば、何も難しい物語ではない。引用したように、文章も平易で読みやすい。
葬儀へ行くまでの道中で、主人公家族の抱える問題が徐々に読者に明かされる。しかしその問題は、発展することも解消されることもなく、主人公とその家族と共に在り続ける。
物語にあらわれる、一つひとつのモチーフは、突飛なものではない。学校生活に適応しきれない主人公。病気を機に以前とは変わってしまった母親。親に放置されて育ち、自らの子供への思い入れが強いがために暴力を振るってしまう父親。しがらみのある親族と再会する葬儀。自らの無意識の加害性。かつての家族旅行の旅程を辿るドライブ。
だが、それらが組み合わさって立ち現れる物語は、分かり易い解釈を拒む。
葬儀から帰った後、主人公の生活に一つの変化が現れる。しかし読者にはその変化の現象だけが説明され、理由は明かされない。この物語に、「何故」と問うても、「分からない」と返ってくる。まるで私の人生そのもののように。
だから私はこの物語を評価できないでいる。若書きの駄作なのか、親子関係の真理を描いた傑作なのかも分からない。
モヤモヤ感が残る。
そういえば最近は、分かり易い物語ばかり摂取しているなと思う。そこは反省したい。
『人は死ねない 超長寿時代に向けた20の視点』(奥信也著)【読書感想】
趣味として古今東西様々な本を斜め読みしてきて、ひとつ学んだことを挙げるとすれば「人は自分の死に時を選べない」ということである。私だって、貴方だって、明日死ぬかもしれないし、120歳まで生きるかもしれない。
それでも科学の発展は、我々は思いがけず長生きする可能性が高い世界をもたらした。超長寿を手に入れてしまった私たち、簡単には死ねなくなってしまった私たちに死生観のアップデートを勧めるのが、『人は死ねない 超長寿時代に向けた20の視点』(奥信也著)である。
以下、目次。
はじめに
第1章 あらゆる病気は克服されていく――人生120年が現実を帯びる現代
第2章 健康とお金の関係はこう変わる――経済力が「長生きの質」を決める?
第3章 ゆらぐ死生観――自分なりの「死のあり方」を持つ
第4章 誰が死のオーナーか――死を取り巻く問題を考える
第5章 未来の死を考えるための20の視点
第1章では、20世紀後半から急速に進歩した医学と医療の現状をお話しし、「生と死」について、現代的な常識と考えられる問題を共有したいと思います。第2章では、そういった高度医療を背景に、「生と死とお金の関係」について掘り下げます。続く第3章では「死の変化がもたらす生の変化」について述べていきます。そして、第4章では、「死のオーナーが誰なのか」という根源的な疑問について論じます。第5章では、これらの予備知識を完備した上で、未来の死がどうなっていくかについて、読者のみなさんに考えていただくための20の視点をお示ししていきます。(「はじめに」より)
私は書名の『人は死ねない』の「死ねない」に込められたネガティブな印象に惹かれて、この本を取った。しかしこの本は決してネガティブな本ではない。
それは著者が医療の進歩を肯定し、超長寿社会をポジティブでもネガティブでもなく、やがてやってくるであろう必然として提示しているからだ。医学の歴史、感染症の克服から予防医学の発展までを背景にしたその言葉には説得力がある。著者によれば、生物学的な寿命と考えられている120歳まで生きることも現実味を帯びているという。
120歳はともかくとして、100歳まで生きることが当たり前の時代となったら。
あと70年近くも生きる時間が、本を読む時間がある、と喜ぶのか。それともまだまだ生きていかねばならないのか、と思ってしまうのか。今の私の素直な感想としては、後者である。ただでさえ、茫洋とした人生の時間の前に立ちすくんでいるのに。その時間がさらに、10年20年と延長されても、どのように過ごしてよいのか、正直戸惑う。
後半の「第5章 未来の死を考えるための20の視点」では、20の短いストーリーと共に、もし読者が登場人物だったらどうしますか、という問いが投げかけられる。悪魔と取引して永遠の生を手に入れたいか、といったSFじみた、誰もが一度は考えたことがあるであろう問いから、臓器移植が「推定同意」(明確に臓器移植を拒否していた人以外は、臓器移植に同意していたとみなす)となったとしたら何を感じるか、という問いのように私が今までに持ったことのなかった視点の問いまで、バリエーション豊かな問いが揃っている。
そしてどの問いも、簡単には答えが出ない。
答えを出せる問いもあるが、その答えが将来、例えば実際に自分や家族の身に死が迫ったときに、揺らがないかと言われると自信がない。答えを出してしまうこと自体に戸惑いを覚える問いもある。
しかし死までのプロセスが予測しやすくなった現代に生きているからこそ、自分がどのように死にたいかという問いは、私たち一人ひとりが考えて答えを出すべき問題なのだ。本書を通し、著者は繰り返し自分なりの「死のあり方」を持つことの大切さを訴える。
この本は決してネガティブな本ではない、と先に書いた。
しかしポジティブなだけの本ではない。著者ははっきりと、超長寿社会は不老社会ではないと説く。
寿命は延びても、永遠に健康でいられるわけではありません。「死なない時代」は「不老時代」ではないのです。
寿命が延びれば、小さな病気や不調は増える。「無病息災」や「一病息災」ではなく、「多病息災」で病気とうまく付き合っていくことが大事になるだろうと著者は述べる。
そしてそのことは、医療費の増大に通じる。第2章は、「「多病息災」で今以上に医療費がかかる」という小見出しから始まり、著者は長寿社会と医療費、公的医療制度についてもしっかりと述べる。現在の公的医療制度はいずれ維持できなくなるだろうというのが著者の見立てである。
理屈は分かる。頭では納得できる。何かを得たければ何かを諦めなければならない。
けれども、読んで考えるほどに、なんだかなあという気持ちになったというのが正直なところ。
生きるのにはお金がかかる。超長寿社会とは、今以上にお金の使い方についても考えなければいけない社会なのだ。世の中は世知辛い。
『嘘と正典』(小川哲著)【読書感想】
小川哲さんの短編集『嘘と正典』を読んだ。
著者の名前は以前から知っており、いずれ読みたいなと思っていたが、ついつい先延ばしにしていた。今年のはじめ、著者が長編『地図と拳』で第168回の直木賞を受賞されたと聞いて、ようやく購入したのが本書である。
冒頭に収録されている短編『魔術師』を読み始めてすぐに後悔した。なんで早く読まなかったのだろう。私の好みのど真ん中を行く一篇だったのだ。
ジャンル越境的SF
文庫版を読んだが、この文庫はハヤカワ文庫JAから出版されている。すなわちSF棚に並んでいる。しかし本書は、ジャンルSFらしくない。裏表紙のあらすじにもこんな一文がある。
圧倒的な筆致により日本SFと世界文学を接続する著者初の短編集。
また、文庫版解説の鷲羽巧さんも、その解説を、
本書『嘘と正典』の魅力を「ジャンル越境的」としてひとまず表現しておこう。
という一文から始めている。
私が感じた本書の魅力もまさにその「ジャンル越境的」なところにある。私は文学とSFの合間にあるような小説が大好きだ。そして本書『嘘と正典』に収録されている小説たちは、まさにその合間にある。
本書には6つの短編が収録されているが、特に気に入ったのはジャンル越境的な要素の強い『魔術師』と『ひとすじの光』である。
『魔術師』は、マジシャンの父が残した人体消失マジックのトリックの謎を、長じてマジシャンとなった姉とその弟が解こうとする物語である。人体消失のマジックに使用されるのは「タイムマシン」。SF的にはポピュラーな舞台装置であるが、それがマジックの舞台あるいは著者の物語世界に現れると、また違った色合いを帯びる。
『ひとすじの光』は、主人公が父の残した手記を元に、とある競走馬の血筋についての物語を辿るという短編だ。馬の血筋を追ううちに、主人公は自らの出自と父の思いを知る。家族小説的な色合いの強い一遍で、そのまま文学系文芸誌に載っていてもおかしくないと思う(逆に言えば、それだけジャンルSF要素が薄い)。
驚くべきはその物語世界の精密さで、競馬界に疎い私は、『ひとすじの光』の物語のうち、どこまでが現実世界に取材していて、どこからか著者の創作なのかまったくもって分からなかった。特に父の手記の部分は、そのままよく出来たノンフィクションのように感じた。思わず「スペシャルウィーク」の名前でインターネット検索をしてしまった。
ところで私は著者の作品のどこに「ジャンル越境的」なところ、「文学的」なところを感じたのだろうか。
自分なりに考えるところ、登場人物の扱い方なのではないかと思った。SF作品のなかには、登場人物がかなりデフォルメ的なキャラクターとして描かれている作品も多くある。もちろんこれは悪いことではない。しかしこの小説の登場人物たちの描かれ方は、キャラクター的デフォルメからは対極にあるように思う。SF的舞台設定のためのキャラクターとその活劇を描くというよりも、とあるSF世界に生まれ落ちた登場人物たちの人生をその視点に寄り添って描いているように感じた。
読後感は、テッド・チャンの小説を読んだ後に近いように思う。
「ジャンル越境」についての考察は鷲羽巧さんの解説が詳しく、興味深かった。
また「文学的」というと、エンタメとして面白くないのではないかと思われてしまいそうだが、その心配はこの短編集については無用だ。
物語の構造は、謎解きというミステリ的だったり(上にあげた『魔術師』や『ひとすじの光』)、サスペンス的だったりして(表題作の『嘘と正典』。とある発明によって共産主義から世界を救おうと暗躍する人々を描く)、楽しい読書体験のうちにあっという間に読み終わってしまう。
著者の他の作品、特に長編も読んでみたいと思わせる読書体験だった。