読書録 本読みの貪欲

地方在住三十路女の読書日記。趣味が読書と言えるようになりたい。本のほかには犬と魚が好き。

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スティーヴンスン『宝島』【読書感想】

 ミスター・トリローニは、スクーナーの出航準備を監督できるよう、波止場の旅亭に泊まっていた。そこまでは歩いたが、うれしいことに道は岸壁ぞいで、そこには大きさも艤装も国籍もとりどりの船がひしめいていた。水夫たちが、ある船では鼻歌まじりに作業をしており、ある船では、ぼくの頭上はるか、蜘蛛の糸みたいに細いロープにつかまっていた。今日までぼくはずっと浜辺で暮らしてきたのに、いまはじめて、海と間近に接した気がした。タールのにおいも、潮の香も、まるで新鮮だった。目にはいる見事なこしらえの船首像は、どれもみな遠い潮路を渡ってきたのだ。

 昔から海洋冒険小説が好きだった。特に大好きだった一冊がティーヴンスンの『宝島』。多くの人の手によって日本語訳もされており、一度は読んだことのある人も多いだろう。子どもの頃に読んだのは福音館書店版(坂井晴彦訳)だった。今も実家にはあるはずだ。現在、手元には訳者違いで2冊ある。鈴木恵訳の新潮文庫版と村上博基訳の光文社古典新訳文庫版だ。なぜ2冊持っているかといえば、本屋で見つけると懐かしくなりつい財布の紐が緩んでしまうからだ。それに2冊とも表紙のデザインが良い。手元に置いておきたくなる。
 少し前に光文社古典新訳文庫版で『宝島』を読み返したので、忘備録代わりに感想を書いておこうと思う。

 この本を手にする前までレ・ミゼラブル 』(ユゴー著)を読んでいた。『レ・ミゼラブル 』は文庫で5冊分という大長編のうえ、なかなかストーリーが進まないので読み進めるのに骨が折れた。脇目をふらず、一気に読んでしまおうと思っていたが、つい気分転換がしたくなり手に取ったのが、この『宝島』だった。
 気晴らしのつもりだったので、ぱらぱらと読みはじめる。読みはじめてすぐに物語が動き出す。ちゃんと一行目から主人公が登場する(レ・ミゼラブルは主人公が出てくるまでに100ページほど読まなければならない) 。そして一気に引き込まれる。


 主人公ジムは、海の近くの宿屋の息子。両親が営む宿屋に一人やってきた長期宿泊客は、いつも酔っては古い船乗りの歌をがなりたてている。彼が病で息を引き取ったのち、滞納していた宿泊料を徴収しようとトランクを開けると、出てきたのは異国の硬貨と「宝島」の地図。ジムは村の名士でたる医師や大地主のトリローニと共に宝島を目指すが、街で雇ったコックをはじめとする船員たちには何やら怪しい過去があった。
 
 ストーリーは単純だ。お宝を目指す主人公たち。そこに立ちはだかる様々な困難。勇気と無鉄砲さで、困難を打ち破っていく主人公。
 ストーリーの基本ともいえる構造の物語だが、大人の今読んでも十分に面白かった。
 主人公の困難への対応の仕方はなかなかに強引であり、若さゆえの無鉄砲さで、思慮深い大人たちの危機を救っていく。キャビンボーイにすぎないジムが、立派な大人である「紳士」たち相手に死闘を繰り広げる様は痛快である。最も、大人になってから読むと、自分勝手に猪突猛進するジムとは、一緒に仕事はしたくないな、などとも思う。

 読み返して気がついたのは、この物語の面白さはストーリーだけではなく、どこかダメなところのある登場人物たちの姿や、彼らの微妙な関係性の描写にもあるなということだった。
 出てくる大人は立派な人もいるが、それは少数で、多くのものは、肝心なところで怖気付いたり、おしゃべりすぎたり、二枚舌だったりする。現実と一緒だ。そして彼らは仲間同士であったとしても、決して一心同体ではない。それぞれに考えがあり、微妙な対立を孕んでいる。出船前の船長と地主の、大人同士らしい対立の様子など面白かった。仕事をしているとときおり目にする「あの」感じが、よく表されていると思う。

 人間心理の微妙な機微の書き分けはさすが、ジキル博士とハイド氏の著者だなと思う。著者の書いた大人向けの小説ももっと読んでみたくなって、『幽霊船』という小説を買ってしまった。2021年初の古本購入であった。

宝島 (光文社古典新訳文庫)

宝島 (光文社古典新訳文庫)

『光文社古典新訳文庫ベスト・セレクション for teens』が欲しい、かもしれない

 タイトルそのままです。
 そろそろまた長編の海外文学を読みたい欲が出てきたこともあり、次のゴールデンウィークに読む本を物色していた。前回の長編外文読書は正月休みに読んだユゴーレ・ミゼラブル。『レ・ミゼラブル』は学生時代に挫折した本だった。過去に挫折した本を読み通すことは、普通の読書の楽しさにプラスして、読み切ったという達成感も得られて気分が良い。なので今回も、10年前に読み挫折したドストエフスキー罪と罰に再チャレンジしようと決めた。
 ところで『罪と罰』は、有名な小説である。いくつかの出版社から発売されており、どの訳で読むか選べる楽しさがある。私の読書はただの楽しみのための読書なので、読みやすそうな訳の本を選ぶことにした。そこで光文社古典新訳文庫である。
 手に取りやすい文庫本の出版年を調べると、新潮文庫版が1987年、岩波文庫版が1999年、光文社古典新訳文庫が2008年である。新しい訳の方が読みやすいだろうという短慮により、古典新訳文庫版を選ぶことにした。訳者は亀山郁夫さん。カラマーゾフの兄弟は亀山訳で読んでいるので、なんとなく安心感もある(と言いつつ確認してみると、岩波文庫版の訳者江川卓さんの訳のドストエフスキー地下室の手記』『悪霊』で読んだことがあった)。
 学生時代なら上下巻で2000円を切り一番安くつく新潮文庫版を選んでいただろうことを考えると、なんだか少し悲しい。

 そんなこんなで光文社古典新訳文庫の『罪と罰』を調べていると光文社古典新訳文庫ベストセレクション for teens』なるものを見つけてしまった。
 プレスリリースによると以下の通り。

2021年9月に創刊15周年を迎えて“15歳”となる『光文社古典新訳文庫』。同年代の10代に向けて、300を超えるラインナップの中からはじめて触れるにふさわしい名作を厳選して、20冊のBOXセット「光文社古典新訳文庫ベスト・セレクション for Teens」をつくりました。

光文社古典新訳文庫 ベスト・セレクションforTeens

光文社古典新訳文庫 ベスト・セレクションforTeens

  • 発売日: 2021/04/05
  • メディア: 大型本


20冊は次のラインナップである。解説の小冊子もついているらしい。

・『リア王』(シェイクスピア安西徹雄訳)
・『車輪の下で』(ヘッセ/松永美穂訳)
・『ちいさな王子』(サン⁼テグジュペリ/野崎歓訳)
・『飛ぶ教室』(ケストナー/丘沢静也訳)
・『黒猫/モルグ街の殺人』(ポー/小川高義訳)
・『ロビンソン・クルーソー』(デフォー/唐戸信嘉訳)
・『秘密の花園』(バーネット/土屋京子訳)
・『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』(О・ヘンリー/芹澤恵訳)
・『若草物語』(オルコット/麻生九美訳)
・『崩れゆく絆』(アチェベ/粟飯原文子訳)
・『虫めづる姫君 堤中納言物語』(作者未詳/蜂飼耳訳)
・『変身/掟の前で 他2編』(カフカ/丘沢静也訳)
・『老人と海』(ヘミングウェイ小川高義訳)
・『フランケンシュタイン』(シェリー/小林章夫訳)
・『ヒューマン・コメディ』(サローヤン/小川敏子訳)
・『オリエント急行殺人事件』(アガサ・クリスティー/安原和見訳)
・『怪談』(ラフカディオ・ハーン南條竹則訳)
・『罪と罰』〔全3巻〕(ドストエフスキー亀山郁夫訳)

 見つけた瞬間欲しい、と思った。10代向けだろうが何だろうが、欲しいものは欲しい。発売は4月1日。思わずネットで予約しようとしたが、その前に一晩考えることにした。
 改めてラインナップを見ると、18作中8作は読んだことがあったり別の出版社のものを持っていたりする。正直、自分からは手を出さないだろうなという本もある。もちろん、自分では選ばない本を読むきっかけとなるいうのも、このようなセットの大きなメリットではあるのだが。
 悩みに悩んだ末、このセットを買う代わりに、まずは私が読みたい光文社古典新訳文庫を20000円分考えてみようというところに落ち着いた。ちなみに上記セットは17595円である。
 そして光文社古典新訳文庫のホームページから選んだ本が下記である。

罪と罰 1~3(ドストエフスキー
感情教育 上・下(フローベール
女の一生モーパッサン
・ワーニャ伯父さん/三人姉妹(チェーホフ
虫めづる姫君 堤中納言物語(作者不詳)
・死刑囚最後の日(ユゴー
・世界を揺るがした10日間(ジョン・リード)
・母アンナの子連れ従軍起(ブレヒト
ロビンソン・クルーソー(デフォー)
・新アラビア夜話(スティーヴンスン)
・マダム・エドワルダ/目玉の話(バタイユ
高慢と偏見 上・下(オースティン)
・グレート・ギャッピー(フィッツジェラルド
・読書について(ショーペンハウアー
善悪の彼岸ニーチェ

 19冊で19796円。どうでしょうか。20000円分選ぶ作業はとても楽しかった。これ面白そう、この本は面白かったなと考えるうちにあっという間に時間が経つ。この中ではバタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』(中条省平訳)のみ既読。旧訳(眼球譚生田耕作)も含め、何度か図書館で借りて読んでいるので、もう買ってしまおうかと思う。

↑新訳はリズムが良いのでおすすめです。『目玉の話』、なかなかリアルでは他人に勧められない小説ですが、実は大好きな物語。

 さて買おうか、とネットストアのカートに入れたのはいいのだけれど、選ぶ過程でとあることに気づいてしまった。
 なんと古典新訳文庫、物にもよるが電子書籍で半額程度の値段で買えてしまうのだ。なかには三分の一ほどのものもある。ここで私の貧乏性が頭をあげる。どうしよう。電子書籍なら倍の本を買えるのか。これは大きい。しかしこの古典新訳文庫、装丁が素敵なので、自分の本棚にずらっと並べておきたいという気持ちもある。「古典」ということもあり、再読にも耐えうる本たちだろうし、物理本でもっていても良いと思う。ただ一方で本棚のスペースは有限だ。
 うーん、悩ましい。
 悩んでいるうちに、そういえば光文社古典新訳文庫を一冊積んでいたことを思い出した。
 プーシキン『大尉の娘』。とりあえず本を読んでから考えることにしようと思う。
 

挫折本を読み返す。ヴィクトール・ユゴー著『レ・ミゼラブル』(西永良成訳)

 「ところが、アンジョルラスには女がいない。彼は恋をしていないのに、勇猛果敢になれる。氷みたいに冷たいのに、火みたいに壮烈になれるなんて、これこそ天下の奇観というもんだぜ」
 アンジョルラスは聴いているようには見えなかったが、もしだれかがそばにいたら、彼が小声で「祖国(パトリア)だよ」とつぶやくのが聞こえたかもしれない。


 挫折本を再び手に取り、そして挫折せずに読み通すために必要なものは、暇と勢いである。今回のレ・ミゼラブル読破への再チャレンジでつくづくそう思った。

 私は『レ・ミゼラブル』という物語をトム・フーパー監督ミュージカル映画で知った。この映画は当時の私にとっては大きな衝撃で、気がつけば映画館で3回観て、DVDを購入し、サントラを延々と聴いていた。
 原作にもすぐに興味を持った。まずはミュージカルの元になっているとされるポール・ベニシュー氏監修の短縮版(永山篤一訳)を買った。角川文庫で上下二冊。これはこれでボリュームがあるが、面白くて一気に読んでしまった。映画で省略されていた人間関係(テナルディエの子どもたち)などが描かれており、満足感を覚えた。
 それからしばらくして、やはり完訳版も読んでおくべきではと思ったのかなんなのかは忘れたが、完訳版に手を出した。古い訳のものは著作権が切れ、電子書籍で安価に読めることに気づいたこともきっかけだったと思う。
 そして挫折した。意外と途中までは順調に読み進めていた。悪名高いワーテルローの戦いのシーンも面白く読んだ。墓場のシーンなど、短縮版では飛ばされていたシーンも読めた。が、マリユスが登場しコゼットと恋に落ちた辺りで挫折してしまった。特にこれといった理由はなかったと思う。自然と本を手に取ることがなくなり、そのまま物語世界から離脱した。とにかく私は挫折したのだ。

 一昨年にモンテ・クリスト伯、昨年にアンナ・カレーニナを読了し、次に何を読もうか思案していたところ(趣味読書のなかでも楽しい時間のひとつだ)、ふと『レ・ミゼラブル』のことが思い浮かんだ。調べてみると、新しい版が出ていた。しかも訳者は西永良成さん。西永さんが訳された本(ミラン・クンデラ著『冗談』)を読んだばかりの時だった。西永さんの訳は読みやすく、これなら挫折経験のある『レ・ミゼラブル 』も読めるのではないかと思った。
 西永訳の『レ・ミゼラブル 』はまずはちくま文庫、ついで、平凡社ライブラリーから出版されている。目前に正月休みが迫っていた。私は平凡社版を手に入れた。
 

再度挫折しそうになった

 本は2020年の年末から読み始めた。そしてさっそく挫折しそうになった。読めども読めども、主人公のジャン・ヴァルジャンが出てこない。「正しい人」であるミリエル氏の話が延々と続く。主人公の登場までは結局、100ページほども読み進まなければならなかった。大いなる前日譚である。それでも読み続けなければ、再度挫折してしまう。そう思い、出来るだけ他の小説本を途中に挟まず、ひたすら『レ・ミゼラブル』の世界に浸った。
 ストーリーだけを追っていく読書に慣れきってしまっている私には、なかなかにつらい読書経験だった。読みながら、短縮版が作られるのも納得だなと思った。時々、何を読まされているのだろうか、と疑問にすら思った。ストーリーにあまり関係のない修道院の歴史やそれに対する著者の見解が長々と述べられていたりする。物語が最高に盛り上がった直後に、パリの下水道の歴史についての講釈が始まったときには、つい笑いそうになった。
 すべての伏線が著者によって丁寧に解説されるのはいいが、現在の小説ではあり得ないだろう冗長さに辟易してしまったところもある。本筋のストーリーよりも長い、町や歴史の説明や政治的見解、実際の地名や人名を挙げての著者の主張。著者はこの本で何を伝えたかったのかと考えると、とたんに分からなくなる。 
 

悲惨な人々

 少なくとも著者が描きたかったのはストーリーだけではないだろう。映画では『レ・ミゼラブル』は一人の徒刑囚でありヒーローであるジャン・バルジャンの物語だが、この小説で著者が描きたかったのは一人の男の更生と償いのストーリーではないだろうと思う。この本の題名はなんだ。『レ・ミゼラブル』である。この訳の版では「悲惨な人々」と訳されている。著者が描きだしたかったのは、この社会に存在する「悲惨な人々」であり、その「悲惨な人々」を内包する社会そのものなのだろう。

 この物語に登場する人物たちは、みなどこか独善的で、共感しきれないところがある。そしてその完璧とは言い難い部分が、一人ひとりを魅力的にしている。映画版に比べるとマリユスはだいぶ薄情な人間に思えるし、コゼットもただ純粋なだけではないところがある。
 登場人物はみな「悲惨な人々」という言葉に内包される。貴族階級の人間はほとんど登場しない。19世紀の他の有名小説、例えばフランスを舞台にした『モンテ・クリスト伯』やナポレオン戦争期を舞台にした『戦争と平和』に繰り返し描かれる上流階級の人間による晩餐会は一度も出てこない。著者の目線は、常に民衆に向けられている。民衆の姿を、過度に理想化することも、侮蔑することもなく描き出している。
「悲惨な人々」というが、しかし、彼らの人生が決して、悲惨で可哀そうなものであるだけではないことも著者は描き出す。それはもちろん貧しい農村に生まれ、パンひとつで徒刑囚とされたジャン・ヴァルジャンの数奇な人生と彼の最後を見れば明らかだが、テナルディエの子どもたちがそれぞれ辿った運命にもそのことがよく表れていると思う。エポニーヌは報われない愛の前に命を差し出し、ガヴローシュの逞しさは下の弟たちに引き継がれた。彼らの存在を通して、著者が書き出したのは人生の「悲惨さ」ではなく、人間に対する「希望」である。
 著者が描いた「希望」、19世紀のパリの民衆が手にした「希望」は確かに人々に伝わり、アンジョルラスたちの「革命」は挫折したが、彼らの希望は少しずつ社会を変え、時代を越え国を越え、私が住む社会へと連綿と繋がっている。相変わらず世界は「悲惨」だが、それでも私たちは「進歩」の途上にあるのだ。

 そしてこの『レ・ミゼラブル』、読みにくい部分は確かにあるが、一方でストーリーが進む部分はものすごく面白い。主人公ジャン・ヴァルジャンはしょっちゅう危機に陥り選択を迫られるし、彼を追い詰める悪役たちも個性豊かに物語を盛り上げる。
 読書中、私の頭の中では、映画『レ・ミゼラブル』のサントラがひたすらに流れていた。小説を読み終わった今、とりあえずもう一度、映画のDVDでも見ようかなと考えている。