読書録 本読みの貪欲

地方在住アラサー本好きの読書録。海外文学、文房具に犬と魚が好き。

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図書臨時増刊2018『はじめての新書』

 出版前から気になっていた冊子をようやく手に入れることができた。岩波書店のPR誌である『図書』の臨時増刊号『はじめての新書』である。岩波新書創刊80年を記念して作られたA5サイズの小さな冊子である。インターネットを通してその存在は知っていたが、地元の本屋では見つけられずにいた。10月1日発行だったので、11月に入ってしまい手に入れることは諦めかけていたのだが、出先で寄った本屋に並んでいるのを発見したのだった。非売品であるが、それをもらうだけでは気まずかったので、森博嗣さんの新書『ジャイロモノレール』と一緒にレジに持っていった。『ジャイロモノレール』は岩波新書ではなく、幻冬舎新書からの出版であるが。

日本には、新書がある。

 さて。冊子を開いてみる。表紙の裏、読者の一番最初に目に飛び込んでくるのはこんな一文である。
 コンパクトな定型に、各分野のエッセンスがギュッと詰まった新書は、日本独自に発展した本の形式だそうだ。その新書という形式を一番初めに出版したのが、岩波新書である。青かったり黄色かったり赤かったりする、本棚にずらっと並んでいたら壮観なアイツである。もちろん私の部屋にも何冊かある。手元にある一番古そうな岩波新書昭和32年発行の坂口謹一郎著『世界の酒』であった。岩波新書264。岩波新書の歴史からすればそこまで古くないのかもしれないが、それでも十分に趣がある。

 印刷の雰囲気や書体、何よりも「100円」という値段が時代を感じさせる。昭和32年ということは、61年前か。私の両親の生まれる前に出来た本なのか。そして新書が発明された80年前というのは祖父母たちが子供の頃である。なんだか感慨深い。

 閑話休題。『はじめての新書』に戻ろう。

 新書が生まれて八〇年。日本ではこれまで、数えきれないほど沢山の新書が発行されてきました。長きにわたり、日本人の好奇心と探究心にこたえてきた新書。この「図書」臨時創刊号では、新書という本を初めて読む方に、その魅力をご紹介します。エッセイあり、読書案内あり。新書づくしの特集号です。どうぞお楽しみください。

 岩波新書編集長による「はじめに」より。この冊子は、28人の「はじめての新書」を題材としたエッセイと、93人のおすすめの新書(1人3冊ずつ!)の読書案内と、11社の新書の各編集長によるのおすすめの新書5冊の紹介という、新書づくしの濃い内容となっている。エッセイや読書案内の執筆者は、様々な分野で活躍する作家や学者の方でありバラエディーに飛んでる。『アイデア大全』『問題解決大全』読書猿さんも寄稿されている。
 そして何よりも「はじめての『新書』」であって、「はじめての『岩波新書』」ではないところが良い。岩波新書だけではなく、いろいろな出版社から出版された新書たちが一堂に集ってオススメされており、充実した新書案内となっている。読んだことがある新書も、読みかけて挫折した新書も、いつか読もうと思っていた脳内積読新書も、この冊子で初めて知った新書もあった。

私の新書3冊

 私にとっての「はじめての新書」は何だったか。実は覚えていない。中学生か高校生のときに読んだ本なのだろうと思うが、記憶に残っていない。いつから「新書」という本の形式を認識していたのかも不明である。大学に入ってからは、学部生向けの図書室に並んでいた新書を次から次へと借りて読んでいた。今でも新書は月に数冊は読んでいる気がする。
 では、もし今の私が新書を3冊、人にオススメするとしたら。大いに迷うが、影響の大きかった次の本を挙げよう。

 小池昌代『通勤電車で読む詩集』(生活人新書)
 森博嗣『「やりがいのある仕事」という幻想』(朝日新書)
 木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書

 どの本も繰り返し読んだ新書である。

 『通勤電車で読む詩集』は風呂の中でもベッドの中でも、ボロボロになるまで読んだ。現代詩を読むようになったきっかけとなった一冊である。
  

通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)

通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)

『「やりがいのある仕事」という幻想』は就活のときにも読んだが、それ以上に転職活動をしていたときに再読した際、その身も蓋もなさが心に効いた。つい最近読み返したところである。将来の不安という目に見えない敵に負けそうになった際に、現実的な視点を与えてくれる。

『理科系の作文技術』は大学時代、研究室に入ってすぐの時に先輩から勧められて読んだ思い出深い本である。実用に特化した作文技術の本であり、「理科系」以外の文章を書く時にも参考になる。最近読み返していないので、久しぶりに読みたくなってきた。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))


 どの本もおすすめです。もし機会があれば手にとってほしい。
 そして『はじめての新書』も機会があればぜひ。「はじめての新書フェア」をやっている本屋さんもあるようだ。私は、フェアの一冊であり、以前読んだことのある村井吉敬『エビと日本人』を改めて購入しようかどうか迷っているところである。

大学のある街を再訪しました。

 先日のこと。大学時代の友人が、大学のある街で結婚式を挙げた。招待していただいたので、私は卒業以来始めて、学生時代を過ごしたその街を訪れた。4年ぶりのことである。

 着陸態勢に入った飛行機の窓からその街を見下ろすと、胸の奥底から懐かしさが溢れてきた。街のつくりが、今住んでいる関西の街とは、明確に違う。海の色が違う。畑の、山の色が違う。一歩外に出ると北国に属するその街の空気は、冬の気配が強かった。街路樹も葉を落としており、長い冬の始まりを感じた。遠くに見える山の山頂には、すでに雪が積もっているようだった。冬を前にしたその空気感が懐かしかった。もうすぐ雪虫が飛び交うのだろう。私は北国の小さな街の長い冬が、嫌いだった。

 私は優秀な学生ではなかった。
 だからといって遊びに邁進したわけでもなく、ただただ鬱屈した毎日を送っていた。
 学生時代を思い出す時最初に浮かぶ情景は、暗い研究室のデスクの上で「私は人生に失敗した」と思いながら、論文や履歴書に向きあっていたことである。可能性の扉が閉じてしまったことに気づき、それでも気づかないふりをして、どこに向かっているのか分からないまま手探りで将来を探していた。何かを選ぶ決断は、別の何かを選んだ可能性を消すことだ。その重みと、選ばなかった可能性に潰されそうになりながら日々をやり過ごしていた。
 人から羨ましがられるような人生を送ることは決してないことが分かってしまった。私はレールの上をうまく歩けなかったのだ。そのことにようやく気付いたあの時。
 私は、結局、逃げるようにしてこの街を出たのだった。卒業式にも出ていない。

 4年ぶりの街は一見、何も変わっていないようでいて、それでも店舗が入れ替わっていたり、新しい道が出来ていたりとほんの少しだけ表情が変わっていた。そんな街並みを見ていると、その当時の苦い記憶が再生されそうになり、慌てて思考の流れを断ち切った。学生時代を総括できるほど、時間薬はきいていないようだ。

 「私の人生は失敗だった」という想念は、当時毎日のように自問していたためか、私の中で強固な人生観を為している。あまり良い結果をもたらさないだろうことは明白なので、普段は忘れて生活するようにしているが、ふとした瞬間にこの想念は顔を出す。
 うまく生きられないのなら、せめて人に優しくありたいのだが、私は自分で思っていた以上に酷い人間でもあった。人を傷つけずに生きたいが、自分は決して優しい人間ではない。自分の内には加虐性があることはとっくの昔に気づいている。私は人を傷つけながら生きてきた。その事実に向き合うことも出来ず、目を逸らした。いずれバチが当たるだろうと、非科学的なことを信じている。いや、バチが当たった結果が、この息苦しい「今」なのかもしれない。

 私は未だに自分がどこに向かっているのか、分からない。友人の結婚式は長い間楽しみにしていたのだけれども、そんな状況で友人や恩師に会うことには、一抹の不安があった。

 結婚式には多くの懐かしい顔が並んでいた。
 式は素晴らしく、友人は皆、優しかった。新郎新婦を心から祝福できた自分がおり、なんだかんだ楽しんでいる自分がいた。3次会まで楽しく飲んだ。
 みんな変わってないね、と言い合いながらも、それでも、みんな学生時代とは少しだけ違っていた。父や母になった先輩、結婚指輪をした友人、仕事の話が飛び交うテーブル。なんだかんだで、私たちは、大人になっていた。日本の各地で、自分の足でしっかりと立って、それぞれの道を歩んでいた。言葉は悪いが、収まるべきところに収まった、といった感じである。みんな頑張ってるのだなと嬉しく思うと同時に、前に進んでいる友人たちと未だに未来が見通せない自分を比較して、取り残されたような気分になった。地方で、せっかく学んだ知識も生かせず、低賃金の仕事しか得られない自分が情けなかった。
 それでも。
 何者でもなかったころ、必死に前に進もうとしていた日々の私は、確かに幸せだった。
 そして、その頃を知る友人たちとこうして再会できたことは、本当に幸せなことである。自分の自意識過剰さが心底嫌になるほど、友人たちはあの頃の日々と同じように私に接してくれた。親が転勤族だったが故に故郷を持たない私にも、帰る場所が出来たのだということを知った。この街は、いつの間にやら私の故郷となっており、そして立ち返るべき立脚点となっていたのだ。
 
 残念なことに、私はまだまだ先の長いこの人生を歩いて行かなければならないだろう。確信をもって道を選び、進んでいけることは、これから先もないだろう。迷いながら、遠回りしながら、あるいは後退しながら、この長い道のりを歩んでいくのだろう。後悔することも多々あるだろう。「人生に失敗した」と思い悩む日もあるだろう。それでも。この街で学んだ日々は、悩みながらも前に進もうとしていた記憶として、私の人格を形作るひとつの核としてあり続ける。

関西の街に帰ってくる。風は心地よく、山は紅葉の盛りを迎えようとしている。旅行で着た厚手のコートをクローゼットに片付けた。まるで夢のような一泊二日だったな、と思う。夢のように楽しく、どこか非現実的な友人たちとの再会と、新郎新婦夫妻の晴れ舞台。
そして帰宅した次の日からは、いつもの日常が帰ってきた。特に気負うこともなく、淡々と出勤し、仕事をこなした。私の今の人生はこうして続いていくのだ。これからも、ずっと。

ディストピア小説を読む 『侍女の物語』マーガレット・アトウッド【読書感想】

 ディストピア小説を読みたい。夏の終わりにふと思った。それから二ヶ月。ようやく一冊を読み終えた。カナダ人女性作家マーガレット・アトウッドによる侍女の物語

 初期のギレアデ政権時代に「侍女」として生きた一人の女性が残したテープを文書化したもの、それが「侍女の物語」である。

 ギレアデは、かつては「アメリカ」と呼ばれていた。合衆国政府はある日突然起こったクーデターで倒れ、その後に樹立されたのが、キリスト教原理主義政権ギレアデである。ギレアデ政府は、民主主義を否定し、徹底的な身分制度と情報統制と監視による社会を作り上げた。ギレアデは、深刻な出生数の低下に直面していた。子供がなかなか生まれない。生まれても五体満足ではない、あるいは、出生後すぐに亡くなってしまう。国の危機を前に作られた、出生可能な女性に与えられた身分が「侍女」である。彼女らの仕事は、高い身分の男性「司令官」たちの子供を妊娠・出産することである。子供を望めない「司令官」の「妻」たちに代わって。「侍女」たちは「司令官」の家に派遣され、個室と妊娠によいとされる食事を与えられ、そして定期的に「司令官」と性交する。妊娠し出産すれば別の「司令官」のもとに派遣され、もしも子供が産めずに年をとってしまったらーー「不完全女性」としてコロニーに送られる。コロニーでは年をとった女性や少数の男性たちが、核汚染物質の処理を素手でさせられている。侍女たちは子供を産むこと以外の一切を取り上げられる。文字も娯楽も与えられない。逃げ出すことは重罪だ。不満をこぼすことも、誰かと共謀することもできない。「目」と呼ばれるスパイがおり、反社会的と思われた人間は絞首刑にされて晒される。検問所は街のいたるところにある。

 そんな国に生きる一人が主人公で語り手であるオブフレッドである。アメリカで一時の母であった彼女は、国の崩壊と新政権の樹立を機に「侍女」にさせられた。物語は現在の彼女の送る息苦しい毎日と過去の追憶ーー友人がおり、恋人がおり、子供がいた自由だった頃のこと、国を出ようと試みたときのこと、センターと呼ばれる再教育施設で過ごした日々のことーーを交互に交えながら進んでいく。
 異様な世界観の中で進んでいく物語の中で、しかし、囚われの彼女を取り巻く状況はなかなか変わらない。それでも時間の経過と共に少しずつ状況は代わっていき、そして、とあるきっかけと共に、劇的な結末へと突き進む。そして彼女は自身の物語をこのように形容する。

この物語がもっと違った物語であればいいのに。もっと洗練された物語だといいのに。たとえ幸福でなくても、せめてわたしの良い面をもっと強調してくれる物語ならいいのに。そしてもっと逡巡の少ない、あまりささいなことで脱線したりしない、もっと活動的な物語ならいいのに。もっときちんとした形式をもった物語ならいいのに、愛についての物語、あるいは人が人生にとって重要な悟りを得る物語ならいいのに。せめて夕焼け、鳥、嵐、雪についての物語ならいいのに。

 これぞディストピア小説、という物語であった。一見突飛なように思える社会の設定も、読み進めているうちに、私の暮らす現実世界の延長であってもおかしくないと思えてくる。強い説得力をもって迫ってくるのは、この物語の舞台が平和な世界からある日突然ディストピアになってまだ数年しか経っておらず、語り手オブフレッドがかつては自由を謳歌していたからである。彼女は大卒のキャリアウーマンであり、不倫の末愛する男を手に入れ、自分の手で子供を育てていた。数年の後に、彼女は文字も仕事も子供も奪われる。恋愛も、自分で子供を育てることも禁止された。この落差が、生々しい。私たちの世界もちょっとした悪意ーーあるいは善意ーーによって、あっという間に変わってしまうかもしれない。そう思えるのだ。
 数年前、現在は社会の変革期にある、と唐突に思った。何かが、大きく変わっている。その変化は、昨日と今日とでは、目に見えないほど小さい。しかし、昨日と今日とでは、何かが徹底的に違っている。そんな感覚を持った。例えば、先日のハロウィン。ハロウィンのイベントがこんな一大行事になるなんて、5年前には思ってもいなかった。
 社会の変化の目まぐるしいスピードが、この物語の説得力をより強くしている。社会状況が悪化するときは、坂を転げ落ちるように一気に悪くなる。そしてそれは決して他人事ではない。そんな予感を背中に感じながら、そっと本を閉じた。


新潮社の単行本で読みました。訳者は斉藤英治さん。ハヤカワepi文庫でも出版されているようですね。