読書録 本読みの貪欲

アラサー本好きの日記です。本、旅行、文房具、犬、魚などが好き。

関西人ですが『東京防災』買いました

今週のお題「わが家の防災対策」

先日の台風はすごかった。台風通過日は、仕事を早退して、雨戸を締め切った部屋に籠っていた。

お昼過ぎ。風は一層強くなり、部屋が揺れた。雨戸には何か重いものが当たる音が幾度かし、外の様子が気になったものの雨戸を開ける訳にもいかず、集中できないままに小説を開いていた。
と、いきなり、目の前が真っ暗になった。停電。真っ暗というのは比喩ではない。雨戸を閉めきった部屋には光源がない。風の音が唸る部屋の中、懐中電灯を探す。つける。懐中電灯は強力なLEDライトのはずだったのだけれど、その光は台風の中、とてつもなく心細かった。
さて、どうしようか。停電になると本すら読めないのだ。何故か電子書籍であるキンドルも不調で使えない。とりあえず、水道が止まっていないことを確認し、ガスの元栓をきった。本当であれば、停電した時点でブレーカーを落とすべきだったのだけれど、当時はその知識はなかった。
外部の情報が気になった。停電の前は、テレビで台風のニュースを流しっぱなしにしていた。情報を得たところで、台風が去る訳ではない。それでも情報から遮断されると、不安だった。普段どれほど「情報があること」に依存しているのか身に染みた。部屋にはラジオがなかった。

夕方。台風が去った。雨が止み、風が収まった。停電は回復していない。少し不安だったが、雨戸を開けた。外は明るかった。隣の家の壁が飛んで無くなっていた。近所の人の声が聞こえた。フロントガラスが割れた、屋根が飛んだ、猫がいなくなった。露天の駐車場に止めていた車を見にいった。何やら固く四角い物が当たったらしく、車の屋根が凹んでいた。夜、職場に留まっていた上司からガラス屋根が落ちた、シャッターが壊れた、という連絡がきた。それでも被害といえる被害はそのくらいで、身内や知り合いの怪我もなかったのは幸いだった。停電は結局その日は回復しなかった。私たち夫婦は一晩の停電にも耐えられず、車で30分ほどの距離にある、停電しなかった義実家宅にお世話になった。

そして台風が過ぎたと思ったら北海道で大地震だ。いやでも災害に対する意識が上がっていた。

そんな折り、普段仕事帰りによく寄る本屋で見つけたのが『東京防災』だ。この本の存在はインターネットを通して知っていた。さすが東京はすごいなあ、全戸配布かと思ったのを覚えている。
それが普通に関西の田舎町の本屋に並んでいるとは。『東京防災』は、A5サイズの黄色い冊子であった。「小」冊子ではない、冊子だ。300ページ以上もある。値段を見ると140円。パラパラと捲ると、『東京防災』のタイトルに反して東京以外でも役に立ちそうである。思わず、購入。


↑厚い!

家に帰って、改めて読んで驚いた。とにかく詳しい。「大震災シュミレーション」といういざ地震が起きた時にどのように身を守るべきなのかということから、食器やハエ取り器の作り方、ロープの結び方といったその後のサバイバルに役立つ知識、さらにその後の生活再建に向けての行政手続きの方法まで、しっかりと書かれている。災害自体も大地震だけではなく、大雨暴風や火山噴火といった天災やテロ・武力攻撃、感染症について記述されている。

もちろんこの本に書いてあるような防災対策は、インターネットで調べると簡単に知ることができるだろう。しかし災害時には、情報、とくに信頼できる確かな情報は、何にしても貴重であることが、先の台風を通して身に染みた。インターネットから隔離された際、この冊子は何にもまして、お守り代わりになってくれるだろう。

防災・減災の第一歩は、まずは知ることだ。この本を家族で読み込もう。備蓄品を見直そう。地域のハザードマップを確認しよう。それからラジオとソーラーパネル式のモバイルバッテリーを買おう。
いずれ私の住む町は、東南海地震でめちゃくちゃになるだろう。その時に生き残るために、できることをやっていこう。

米澤穂信『満願』【読書感想】

 ある日、米澤穂信『満願』を原作とするドラマの宣伝を見た。そういえばこの本を持っていたな、長編ミステリかと思っていたが短編集だったのか、と思った。せっかくなので積読山から単行本を探し出し、開いてみる。6つの短編が収められており、ドラマ化したのはそのうちの3つ(『夜警』『万灯』『満願』)であるらしい。
 どの作品もミステリ風味である。すべての作品が一人称で書かれており、どの作品にもうっすらと暗い雰囲気が漂っている。
 米澤穂信さんの小説を読むのは始めただったのだけれども、もっと軽い文章を書く人なのかと思っていたので少し意外だった。タイトルもすべて漢字のみ、しかも普段の生活ではあまり見かけない漢字の単語であり、いかにも怪しげである。目次を見るだけで、期待感が膨らむ。



 以下、それぞれの短編の一言感想。

米澤穂信『満願』感想

『夜警』

 犯人を取り押さえ時に殉職した部下の死に疑問を持つ、警官が主人公の話。読者は、読み進めることで死んだ部下の人となりと事件当日の流れを追う。主人公曰く「警官に向かない」、小心者である殉職した部下の卑怯なところが、私の中にもある気がしてヒヤリとする。

『死人宿』

 自殺の名所の近くにある宿が舞台。その宿で働く主人公の元カノが、露天風呂の脱衣所で遺書の落とし物を見つける。主人公と元カノは宿泊客の誰が自殺志願者かを探そうとするが…という話。6つの短編の中で一番ミステリ感が強い。この短編集の中で一番好きな話。

『柘榴』

 女ゴコロを惹きつけてやまないダメ男とその妻と娘たちの話。妻と長女の視点で物語は語られる。一人の男を取り合う母と娘たち。この物語が説得力を持つのは小説という形式ならではだと思う。魅力的なダメ男が役者という姿を与えられた瞬間に、この物語の説得力はなくなるだろう。ドラマ化は難しいだろうな、と思った。

『万灯』

 バングラディッシュでガス開発を行おうとする商社マン主人公が、現地の人間相手に奮闘するお仕事小説。この短編集の中では一番長い。80ページほどあるが、すべては最後の5ページのためにある。完璧に嵌められて(自業自得なのだが…)、窮地に陥ってしまう主人公にゾクゾクした。

『関守』

 事故が頻発する山道を取材に訪れたライターの主人公。ドライブインに立ち寄り、そこの老婆に事件の話を取材すると、彼女は事故死した故人たちのことを知っているという。ホラー風味の短編。しかし話を聞くうちに明かされたのは、深い人間の業だった。

『満願』

 表題作。主人公の弁護士は、かつて下宿していた畳屋の女将が起こした殺人事件の弁護人となった。心優しかった彼女が何故殺人事件を起こしたのか。こんな動機ありなのかという驚きが待つワイダニット。この動機の小説はたぶん今までに読んだことがなかったように思う。そういうことか、と驚いた。


 6作品中4作品で殺人事件が起こるというハードな短編集である。暗くてどこかヒヤリとした読後感があるのは、その殺人事件や傷害事件の動機が、よくある「恨み」「怒り」ではないからだろう。その動機は「邪魔だから殺す」といったような自己中心的なものであり、犯人たちには、自分の大切なものを守るためには、死人がでるのも止む終えないとでもいうような冷たさがあった。そしてその冷たさ、冷静さが本書の魅力であり、またその冷たさがもたらす帰結(あるいは冷たさの発覚)が、小説のオチとして素敵に機能している。
 型に嵌まったミステリではないが、ミステリとして一番大切な要素である「読んだときの驚き」はどの短編にも十分にあった。著者の本は、人気作家だから、と敬遠していたところがあったが、今後は敬遠せずに読んでいきたい。

満願 (新潮文庫)

満願 (新潮文庫)

国分功一郎『暇と退屈の倫理学』を再々読中【読書日記】

 国分功一郎『暇と退屈の倫理学を再々読している。はじめて読んだのは、発売されてすぐの頃。本書は話題となっており、新聞の書評等にも取り上げられ、書店でも平台で並べられていたように思う。流行に流されやすい私は、「倫理学」という言葉の重々しさに恐れをなしながらも、好奇心に押され手にとったのだった。読んでみると、これがすこぶる面白かった。
二度目に読んだのは、その一、二年後のことだったと思う。私はまだ学生であり、フェリーでの移動の途中の無聊を慰めるために、この本を持っていたことを鮮明に覚えている。客の殆どいない、薄暗い二等客室の絨毯敷きのうえで寝転びながら読んでいたのだった。
 ちなみに過去のブログを見返すと、「暇と退屈の倫理学」の本筋よりも、暇と退屈の起源を探る第二章にて紹介されている「定住革命」に心惹かれていたようである。

dokusyotyu.hatenablog.com


dokusyotyu.hatenablog.com

切実な再々読

 そしてそれから4年後、今再びこの本を手にとっている。
 私は社会人となったが、そこで直面したのは、暇な時間に何をして良いのか分からない問題だった。まさに、本書『暇と退屈の倫理学』が課題としている問題である。仕事は、確かに毎日差異はあるものの、結局のところ同じことの繰り返しではないか、と思うことが多かった。転職をして「自分の好きなこと」をしているはずなのに、だ。好きだと思っていたものが、好きではなかったのかもしれない。仕事以外に目を向けても、読書以外に大した趣味もないし、その読書だって飽き飽きしていることがある。読書以外の趣味を見つけようとしているが、なかなかうまくいかない。熱中できるものが何もないという現実。何かが変わるかと期待して結婚してみたが、新婚生活の新鮮さは続かない。結婚は毎日の生活の連続に過ぎない。
 この代わり映えのしない生活を90歳、あるいはそれ以上の年齢になるまで続けなければいけない、という未来。もちろん歳を経れば、考え方は変わるだろうが、今の私には現代社会の勝利である「長寿」が空恐ろしく感じる。あと半世紀以上、どうやって暇と退屈をやり過ごせばよいのだろう。
 
 今、私は学生の頃とは違う切実感をもって、この本に向き合っている。

読書ノートをつけてみる

 そんなこんなで再々読をしているのだが、今回は前回までとは少し違う読み方をしている。読むだけではなく、書く。読書ノートをつけながら読んでいるのである。読書ノートといっても、そこまで複雑なものではない。使用しているのは手書きのノートロイヒトトゥルム1917)。読みながら、見出しと小見出しを書き抜き、そこにキーワードとなる言葉を一つ二つ付け加えるだけである。ときどき感想や疑問点も書き込む。幸いにしてこの本は、小見出しが多く、書くことには事欠かない。小見出しを拾っていけば、議論の流れがある程度わかるようになっている(ただしキャッチーな小見出しも多々あり、それを補うような形を目指して、キーワードを拾うようにしている)。
 書く、という行為を挟むことで読書スピードは、ぐっと落ちた。しかし普段の読書よりも、読書の内容が頭に残っているように思う。ノートを見返すことで、今までの議論を俯瞰し話が進む方向を確認することができることも大きい。議論の中で迷子にならずに、「文字を読んでいるのに、頭の中に入ってこない」ということも少ない。
 じっくりと本に向き合っている感がするし、何よりも暇が潰せる。なかなか良い読書の方法なのではないか。もちろんこの方法を一歩進めて、もっと分析的に読むことも可能だろう。

 現在、全七章のうち、五章の半分ほどまで読書を進めた。毎日読んでいたわけではないが、ここまで読むのに二週間。もう少し、この本と向き合う日々が続きそうだ。

今回は、2015年第1刷の増補新版を読んでいます。