読書録 本読みの貪欲

アラサー本好きの日記です。本、旅行、文房具、犬、魚などが好き。

鍵忘れて部屋に入れないから『友罪』みたらすごかった

鍵を忘れるというベタな失敗により、自宅から閉め出されている。家人は日帰り出張で、帰りは22時を回るそうだ。どうしようもないので、仕事帰りに映画館に寄った。
とりあえず、時間を潰すことが目的なので、上演時間と終了時間をにらめっこしながら観る映画を決める。立ち寄った映画館で上映していた映画のうち、上映時間だけなら『レディプレーヤー1』が一番長かったのだが、前に鑑賞済み。めちゃくちゃ面白かったので、もう一回観るのも有りかとは思ったのだけど、せっかくの機会だしと、普段はあまり観ない邦画を観ることにした。それで『友罪』。上映開始まで15分ほどと待たなくて良かったのも決め手だ。

そして鑑賞。

すごかった。
作品世界に圧倒された。過去(過去の犯罪や罪悪感)とどう向き合うか、友人や身内の過去とどう向き合うか、というのがテーマで、大まかなストーリー自体は、割と先が読める感じでもあるのだが、それでも、気づいたら作品世界に飲み込まれていた。シリアスなシーン続きで、笑えるようなシーンは皆無。中盤あたりで、この映画、すっごいシリアス!と思ったら、そのままラストまで、シリアスで厳しいストーリーが続いていく。人間が信じられなくなる。そしてラストは多少の救いはあるものの、決してハッピーエンドではない。

さて。私がどのくらい映画世界に圧倒されたかということは、上記の何も具体性のない印象の羅列からなんとなく伝われば嬉しい。が、ここに圧倒されたエピソードを重ねようと思う。

映画を観終わっても、まだ部屋に入ることができる時間にはなっていなかった。
映画館に併設されている本屋に行った。自分を甘やかし、本でも買おうかと思ったのだ。買うなら小説かなと思い、文庫本コーナーに向かった。しかし、驚くべきことにピンとくる本がないのだ。先程観たばかりの映画の余韻が、本選びを阻害する。いつもはあんなにも輝いて見える本屋さんの棚が色あせている。
あえて読みたい本を挙げるとすれば、一昨日買って読みかけの『未必のマクベス』か、今朝キンドルでワンクリック購入してしまった『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』…どちらも私の入れない自宅の部屋の中にある。

結局、何も買わずに本屋を出た。空腹を思い出した。開いていたサイゼリアに入る。
そして、イカとエビのドリアを食べながら、この文章を書いている。瑛太の鈴木君役(中学時代に殺人歴有り)がすごくよかった。言葉の出にくそうな感じの話し方が良かった。文章がまとまらない。ああ、映画はすごいな。

家にはまだ入れない。レイトショーでもう1本映画観ようかな…

ゴールデンウィーク2018

今週のお題ゴールデンウィーク2018」

ついに終わってしまった。ゴールデンウィーク2018。といってもシフト制の休日出勤のため、今年の休みは最大2連休だった。お陰様で4年ぶりくらいに、どこにも出かけないお休みでした。それでもゴールデンウィークゴールデンウィーク。思う存分だらだらした。明日からの仕事が辛い。

どこにも行かなかった代わりに、本はたくさん読んだ。ずっと読みたいと思っていた小説『女王陛下のユリシーズ号』(海洋冒険小説、と謳われていたけれど、読んでみると、手に汗握りっぱなしの海戦もの。始めから終わりまで危機ばかり)と『ソラリス』』(SF。意思を持った海に囲まれた惑星ソラリスと、なんとかコンタクトをとろうと頑張る人間たちの話。「思想者たち」という章があったりと、あまりSFっぽくない読後感。まだ小説世界を咀嚼しきれておらず、感想がまとまっていない)を読めて満足。特にゴールデンウィーク前半に読んだ『女王陛下のユリシーズ号』は驚くほど面白く、読後2、3日は、小説世界から抜け出せなかった。
ゴールデンウィーク最終日の今日は読書エッセイ『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』という本についての対談集をよんでいる。辺境ノンフィクション作家の高野秀行さんと歴史家で中世日本の専門家の清水克行さんが、互いにオススメの本を紹介し合い、その本の内容やそこから連想されることについて語りつくすという内容である。これが面白い。辺境の地や過去の日本という視点から、本を通し「人間とは何か」ということを炙り出していく。紹介されている本はどれも興味深いが、特に『ゾミア』と『ピダハン』という本は読んでみたい。ゴールデンウィーク、もう一回来ないかな…

読書の合間には、映画館に行ったり(『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』見てきました。映画はシリーズものでも、一回ごとに完結して欲しい派なので、あの終わり方はちょっと不満です。面白かったけど)、冷蔵庫を買ったり(夏に向けて買い換えます)と、そこそこ充実していた気もしないでもありませんでした。以上。

結婚という転機を経てみた感想。

いわゆる結婚生活を始めて早4ヶ月。引越し・転職と転機だらけの年末年始を経て、ようやく日常は日常らしく淡々と過ぎていくようになった。

結婚という人生でも一二を争う転機を経てみて、私という人間は何か変わったか。それが驚くほど変わらない。

もちろん変わったこともある。早起きするようになったし、多少は料理をするようになった。仕事の業界も職務内容も大きく変わったし、付き合う人も変わった。日々感じるストレスだって違う。最近は、毎日お米研ぐのとヤカンでお茶をつくるのとお弁当箱を洗うのと、定年退職後天下りした還暦過ぎの上司から小言を頂戴することがストレスの主な要因となっている。

しかしそれでも私は、私の本質は驚くほど変わらなかった。むしろ私の中にあった私自身の本質が、新婚生活により鮮やかに描き出された。

私は怠惰で、主体性のない人間だ。

大学生のころ、慣れないアルコールの勢いに乗って「私ってどんな人間?」と友人に尋ねたことがある。友人は「ふわふわしてる感じがする」と答えた。ふわふわしている。このやりとりがずっと頭の中から離れないのは、その答えが私の核心をついているからだろう。
主体性のなさ。
それが私の根幹であり、人生を形作ってきた。

いつも、ここではないどこかへ行きたかった。
「今」は常につまらなかった。
だけど、自分にとって面白いものは何かが分からない。どこへ行きたいのか、何をしたいのか。
進学や就職といった大きな選択は、悩んだ末に結局、いわゆる「レール」の上を歩くことを選択した。今思えば、選択した、というよりも、「常識」や「ふつう」に流されただけである。
なんとなく、死にたい死にたいと思い続けていた。人生に楽しみを見出せない人間は、人生が内包する虚しさに直面せざるを得ない。人生の意味と無意味さ、別の人生の可能性をずっと考えていた。きっとどこかで人生を間違えたのだろう、あのとき別の選択をしていれば、私は人生を賭けてでも熱中できる何か(職業なり趣味なり)を手にしていたのではないか。

結婚を決断したのだって、一人暮らしにも飽き、「ここではないどこか」で送る生活が人生を変える可能性に希望を感じたからでもある。もちろんそんな主体性のない願望によって人生が変わるわけがない。

ところで、私の夫は私とは大きく違う人間であり、主体的に自分のことを自分で楽しませることができる人間である。今日だって仕事終わりに映画館へ行き、帰宅後は
学生時代の友人が書いた論文を読み、ネット通販で買ったバイクのパーツを見ながらニヤニヤしていた。
楽しそうな夫を見るのは好きだが、その一方で、没頭できる楽しみを持つ彼をとても羨ましく思う。そんな彼と生活していると、Googleで「無趣味 暇」などと検索して時間を浪費する虚しさが一層際立つ。ああ、私ってこんなにつまらない人間だったんだ。もしかして、人生、楽しみ損してる?
もちろん夫の好きなことを徹底して楽しむ姿勢は結婚前から変わらない。そうだ、そういえば私は彼のそこに惹かれて結婚を決断したのだった。私も彼のように、自分で自分の人生を楽しませたい。

結婚というイベントでは私は何も変わらなかった。しかし結婚生活という何気ない日々の中で、私は自分の「主体性のなさ」というコンプレックスと向き合わざる得なくなった。これを転機にしなければ。私は一生、つまらないつまらないと思いながら、この先70年も生きていかなければならなくなる。
自分のことを変えられるのは自分だけ。人生のイベントが変えてくれるわけではない。今の私は、自分で自分を、自分の人生を変えるという転機の真っ最中にいる。



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