読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

暇で退屈で面倒くさい

図書館へ行った。貸出冊数の上限が10冊から20冊に変更になっていた。
5年前の自分ならとても喜んだと思う。
しかし今の私は、別にうれしいとも便利になったとも思わなかった。
2週間で20冊本を読めるほどの集中力が、今の私にはもはやもうない。

集中力がなくなった。
本を読んでも、途中で投げ出してしまうことが多くなった。
積読本ばかりが増えていく。
何を読んでも、イマイチ、面白くない。
いや、読んでいる最中は面白いのだけれども、ちょっとしたきっかけで集中力が切れてしまい、読みかけの本はそのまま、そのままで、本の代わりにスマホを見てしまっていたりする。

そして時間を無駄にし、本も読み切ることもなく、なんとなく一日が過ぎてしまう。
趣味の読書をしないのなら、仕事でも家事でもやればいいのに、それもできずに、だらだらしている。

ああ、ホルモンK療法を受けたい(byテッド・チャン『理解』)

あの悪夢が消えさって、心やすらかにすごせるようになると、わたしはまず、読書の速度と理解力が向上していることに気がついた。前からいつも、そのうち機会があればと本棚において、ついぞその時間がなくてそのままになっていた本を実際に読むことができ、のみならず、もっとむずかしい技術関係のものまで読んだのだ。(p69)

平凡な頭脳しか持たない私は、なんというか、時間をただただ消費している。
ひたすらに歳をとるのを待っているような。
老いて死んでしまうのを待っているかのような。

人生の目的の消失?
いや、私の人生には、はじめから目的なんてなかった。

フィクションの世界の主人公たちは、人生の目標を持っていて、それに向かって一生懸命努力する。
そこでは目標を持つのは当たり前で、ただただ努力できる幸福が語られることはほとんどない。

目標もなく、だからといって、生きがいと言えるような趣味などもなく、受動的に時の流れに身を任せる現状。

小さな雪の粒も積み重なれば 景色を変えるのは不思議ですね
どうしようもない日も積み重なれば 年月となるのは残酷ですね 
                  (by amazarashi『クリスマス』)

暇で退屈で死にそう。
でも、何かをするには死ぬほどめんどくさい。

ああ、昔のように時間を忘れて長編小説を読み耽りたい。

いやその前に國分功一郎『暇と退屈の倫理学を読み返そうかな。増補新版を読みたい。

以上、ただの愚痴、日曜の夕方を持て余した末の日記でした。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

↓四年前に読んだときの読書録。
dokusyotyu.hatenablog.com

自分に足りていない能力について。

 森博嗣さんの新書を立て続けに読んだ。
 2003年初版ながら最近も新聞広告に載っていた『「やりがいのある仕事」という幻想』と2017年1月初版の『夢の叶え方知っていますか』という朝日新書である。
 自分には「やりがい」も「夢」もないんだけど、と軽く絶望しながら読んだのだけれども、読み終わって少し考えこんでしまった。
 何を考えたのか。
 もしかすると私には「自分を楽しませる」という能力が圧倒的に欠如しているのではないか、という仮説についてだ。

 著者の趣味は庭園鉄道である。中学生の時から『浮遊研究室』を読み込んでいる私には、著者がその趣味にかなりの時間を費やしていること知っていた。だが、その規模はどうやら想像以上のものだった。
 鉄道庭園のために副業(作家業)で稼ぎ、引っ越しをし、土木工事に励む。
 私は鉄道趣味がないので、その良さはなかなかピンとこないのだが、それだけ熱中できるものがあるということを、素直にうらやましいと思う。

 そう、私には熱中できるものも、目標とするものもない。

 人生の目標=人生の意義については、飽きるほど考えてきた。
 人生の意義を問うのではない、私たちは「人生から問われてる」(byフランクル)って言われても、言われたその場は納得できた気がしても、やっぱり心の底で納得できない。

 私は人生を失敗した、と毎日のように思っていた日々を克服できてはいないし、何といっても毎日はつまらない。
 積極的に死にたいとは思わないけれど、取り立てて生きたいとも思わない。
 特に何をするでもないけれど、ただただ遠くに行きたいなあと思う。現実逃避。逃避するほどの現実はあるのか。

 客観的に見れば幸せな状況にあると思う。住む場所も食べるものも、働く場所もある。離れて暮らしてこそいるが家族も元気だし、友人もいる。これ以上何を望めばよいのだろう。
 でも、主観的には、まったくもって、毎日が楽しくないのだ。

 これは何が悪いのか。
 どうすれば私は「辛い」と感じずに生きられるのか。

 と、考えたところで、私には「自分を楽しませる」能力が圧倒的に不足しているのではにか、という仮説に至った。
 何をやっても楽しくないのは、自らを楽しませようとする積極性が足りないからではないか。

 『夢の叶え方を知っていますか?』の中に「楽しさは買うものだろうか?」という段落がある。

現代人の多くは、「楽しさ」というものは、人からもらうものだと考えている。否、考えているのではなく、ぼんやりとそんなふうに感じているのだ。

 楽しさは、誰かが作ってくれるものであり、自分は商品を探せば良い、と考えている。

 毎日が楽しくない、と思うのは、「楽しさ」というものは誰かから与えられるものだと思い込んでいるからではないか。
 私の人生を楽しくするのは、「楽しい環境」ではなくて、私自身がどのように人生を過ごすか、ということにかかっているのだ。

 自由とは、自分が思った通りに行動することだ。これは僕の自由の定義である。まず思うこと。つぎにそのとおりに行動すること。すなわち、夢を実現させることは、自由を獲得する行為なのである。

 私は、もっともっと自由に生きることができるはずだ。

思考停止しているなあと思う

なんとなく毎日が辛い。
毎日、ではなく、平日が辛い。仕事が辛い。
ゴールデンウィーク明けの月曜日、馬鹿みたいに早起きしてしまい、普段より早い時間に会社へ向かったが、向かう車内でひどい動悸を感じていた。
やっとのことで迎えた金曜日。スーパーに寄ってから帰ろうと思っていたにも関わらず、車の中で一人になったら自然と涙が出てきて、泣きながらスーパーに寄る訳にも行かず、そのまま家に帰った。
土日。必死に仕事から、目を反らそうとしている自分がいる。お腹がずっと調子悪い。野菜を食べていないからか。料理をする気が起きない。

日曜日の夜、こんな文章を書いている自分がいる。
本当に書くべき言葉は、こんな抽象的な愚痴ではなくて、私は仕事の何をこんなにも恐れているのか、仕事の何がこんなにも私を傷つけているのかといった状況分析と、それに対処するための具体的な方策である。

書くことは力だ、と思っていた。それこそが私を救うのだと。

でもここのところ、私は書くという行為、正確に言えば、書くことに伴う考えるという行為をずっと放棄している。
現状に甘んじている?
そうかもしれない。
今日と同じ明日が来ることなんて全く望んでいないのに。

就職してから、私は何だかずっと馬鹿な人間になった気がする。高校生の時の方が、ずっと冷静に未来を査定できていた。
考えなくとも生きていけるだけ、大人って楽だなあとも思う。けれども、このまま流されて生きていきそうで、なんだか空恐ろしい。

とりあえず、少しでも冷静に明日の仕事へ立ち向かえるように『「やりがいのある仕事」という幻想』という新書を読んでいる。やりがいのある仕事も、趣味も、人生もない場合どうしたらいいんだろう?