読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

ストレスと本への衝動

 ストレス解消法は世の中にいくつもあって、きっと人それぞれお気に入りの方法があるだろう。
 どうやら私にとって、それは本の衝動買いであるようだ。

 最近、そこそこストレスフルな生活を送っているのだけれど、びっくりするくらい部屋の中の本が増えている。
 目に見える分はまだいい。物としての本が残るので、未来の自分へ罪悪感を覚えさすことができる。
 問題は電子書籍だ。
 クリック一つで本が買えてしまう。データなので物として残らない。場所を取らない。
 この気軽さがそのままハードルの低さとなって、浪費へとつながっていく。
 ストレスが溜まっているときは、「この本面白そう!」が「欲しい!」に、そして「これ買う!」と直結している気がする。
 わかっている、このままでは駄目だって。怖くてレシートもamazonの履歴も見返せない。一冊一冊は安くても、なんだかんだで万単位で本を買っている気がする。きっと高い単行本もちょっとマイナーな詩集も買えちゃうくらいの浪費をしている。
 なんだか、ほんとに、自分が残念だ。

 そしてこの文章を書いている今だって、高級ブランドのバックや時計に金を使っていないだけマシと思っている自分がいる。自己嫌悪。

 でも(この期に及んで言い訳する)、衝動買いした本の一冊吉野朔実は本が大好き』は一生大事にすると思う。

吉野朔実は本が大好き (吉野朔実劇場 ALL IN ONE)

小説のための小説『1000の小説とバックベアード』

 小説をテーマにした小説を読んだ。佐藤友哉『1000の小説とバックベアード
 著者、佐藤友哉の本を読むのは初めてだったが、これが面白かった。一気読み。昨日は台風が来るとのことで、引きこもって本を読んでいたのだが、おかげで退屈することなく一日を過ごすことが出来た。
 テーマは、人は何故小説を書くのか。そしてこの本は、SFであり、冒険小説であり、ファンタジーであり、純文学である。面白くないわけがない。

 主人公は小説の神様に愛され、それゆえに苦悩する「片説家」だ。「片説家」とは何か。

 片説家は、簡単にいうと小説家みたいなものだが、本質はひどく違っているので、僕は決して片説家ではない。

 極端なことを云えば、文章を組み立てられる人間なら誰でも片説家になれる。それに小説家は自由業だし、読者も不特定多数だが、片説家は会社を作ってグループを組み、みんなで考えみんなで書き、読者ではなく依頼人に向けて物語を制作する職業だ。たった一人の読者のために物語を書く創作集団だ。

 物語は、主人公がこの片説家の会社を馘になるところから始まる。無職になった主人公は、その日から文字を読むことも書くこともできなくなってしまった。しかし翌日、そんな彼に「小説を書いてほしい」、「小説のせいで突然姿を消した妹を探している」という女がやってくる。無職になった彼は、小説を書こうと苦悩しつつ、知り合いの探偵の力を借りて行方不明の妹について探ろうとするが、これが一筋縄ではいかない。
 小説家、片説家、そして小説を書く能力に恵まれながらも小説家ではない「やみ」と呼ばれる人々、東京の地下にある特殊な図書館の主「バックベアード」、謎の集団「日本文学」。小説を愛する様々な立場の人たちが主人公の前に立ちあらわれる。多くの文豪たちに愛された「山の上ホテル」に宿泊し、「書きたいことはない。」という結論に至ってしまった彼は、自分の小説を書き上げることができるのか。

 書店に行けば毎月のように出る新刊本で売り場は溢れている。
 選択肢が多すぎて困惑してしまうほどに。

 それら……書店員たちが厳選したそれらは、とてもいい本なのだろう。魅力的な登場人物たちが謎に満ちた事件を解決したり、どこにでもいるような登場人物たちが平凡な日常をあるがままに生きたり、政治や戦争や性愛や幸福や結婚について考えさせられたり、彼女が死んだり猫が死んだり彼女が生き返ったり猫が生き返ったりと、とてもいい本ばかりなのだろう。
『いい本でした。おもしろかったです。感動したし、感心しました。それが一体なんだというの? だからどうしたっていうの? いい小説を読んだ。それで何がどうなるっていうの?』

 
 今年No.1のベストセラーだって、50年後にはほとんど誰も覚えていないだろう。一世を風靡した人気作家の本だって、100年後には誰も読んではいないかもしれない。いわんや多くの無名作家をや。
 
 それでもなぜ、人は小説を書くのだろう。
 それでもなぜ、人は小説を読むのだろう。
 
 一つの答えを、この小説は提示する。それが当たっているのか、それはもちろん分からない。
 
 しかし私たちが生き続けるしかないように、小説家たちは小説を書き続けるだろうし、読者は小説を読み続けるだろう。
 もしかしたら、目の前の積読本の山に、奇跡のような一冊の小説が眠っているかもしれない。そして未来の私は、その一冊に、人生を救われるかもしれないのだ。

1000の小説とバックベアード (新潮文庫)

私は幸せなのか。アラン『幸福論』

 入籍当日。遠距離の婚約者に会うため、バスと電車を乗り継ぐ中、アラン『幸福論』をパラパラと読んでいた。
 プロポ(哲学短章)というそれぞれ独立した小編が積み重なってできた本書は、どこからでも読めて、移動中に少しずつ読むのにはもってこいだ。岩波文庫で読んだが、小さな文庫本には93の幸福に関するプロポが収録されている。

 読んで驚いたことは、この本に書かれた内容が驚くほど、実践的だったことだ。哲学というととっつきにくい印象があるが、プロポが描き出しているのは、日常生活に根ざした人間の姿=すなわち私たちの在り様である。それが平易な言葉で書かれている。
例えば、「46、王さまは退屈する」

若干苦労して生きて行くのはいいことだ。波乱のある道を歩むことはよいことなのだ。欲するものがすべて手に入る王さまはかわいそうだと思う。神さまたちも、もしどこかに実在しておられたら、少しノイローゼになっているにちがいない。

何もしていない人間はなんだって好きになれないのだ。そういう人間に、まったく出来合いの幸福を与えてごらん。彼は病人がやるように顔をそむける。それにまた、音楽を自分で演奏するよりも聞く方が好きな者がいるだろうか。困難なものがわれわれは好きなのだ。

ところで、入籍の際に驚いたことは、たくさんの人から「おめでとう」と声をかけて頂いたことだ。それはもう、一生分の「おめでとう」を言われたのではないかと思うぐらい、「おめでとう」と言われた。
何もしていないのに、こんなに祝福されるなんて、なんだか違和感。
今の私は「おめでたい」のだろうか。

違和感といえば、高校時代の友人に婚約したことを報告した際に言われた「じゃあ、今は幸せなんだね」という言葉。私はその問いかけに即答できず、言葉に詰まってしまった。
そして正直に、未来に対する不安を口にした。マリッジブルーというわけではないが、そこに楽観はなかった。

「結婚=幸せ」と、純粋に信じられる人は、今の時代、そんなにいないだろう。
少なくとも結婚することで状況が変わる。その変化はよいこと続きとはいかないだろう。
大きく生活が変わることに対する不安。未来が見えないことに対する漠然とした不安。
この人となら不幸になっても構わないと思える人と結婚したはずだが、不安は不安だ。まったく、幸せってなんだ。

でも、もしかしたら、この不安にまみれた変化の中にこそ、幸せというものはあるのかもしれない。

幸福論 (岩波文庫)