読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

MENU

久しぶりのブログおよび読みたい本

今週のお題「読みたい本」

 久しぶりにブログを書く。およそ2年ぶりである。最後に書いた記事はウエルベックの『セロトニン』。単行本が発売されて比較的すぐ読んだ記憶がある。『セロトニン』は今や文庫版も発売されている。書店で見つけた文庫版は、とりあえず購入して本棚に並べてある。新作も7月に発売だそうで楽しみです。

 さて近況である。
 数カ月前のことだ。特に理由はないものの、ひどく精神的に落ち込んでいた。自分の人生にはもう面白いことは何も起きず、老後に怯えながら職場と自宅を往復するほかないのだ、という諦念に襲われていた。当時の日記(断続的に紙のノートに日記を書いている)を読み返すと、ルーチン化した日常に絶望している様が記録されており苦笑する他ない。
 が、人生には変化がつきものだ。
 とあるきっかけで、私が送る生活は大きく変わり、その変化が良いほうに作用したらしく、今は普通に淡々と日々の生活を送っている。
 落ち込んでいたときは本を買うばかりで、読むことはおざなりになっていたのだが、最近は読書量も回復してきている。どうやら私にとって本を買うことは、精神状態のバロメータであり、ストレス発散方法となっているらしい。

 ということでブログは更新していないが、本は読んでいる。読書傾向はこの3年ではそこまで変わらず、SFと海外文学と科学ノンフィクションを中心に、興味が赴くままに浅く広く読んでいる。
 変わったことといえば、感想を書き記すということについて、いっそう面倒くささを覚えるようになったことと、記憶力が低下し読んだ本の内容が読んだそばから抜けていくことである。加齢の影響だろう。そしてそれを克服するには、ブログなり日記帳なりに、自分の言葉でアウトプットすることだろう。
 そう思ってこの文章を書いているが、すっかりブログの書き方を忘れてしまっているな、と思う。

読みたい本

 読みたい本はいくらでもある。SNSには沢山の新作の出版情報が流れており、元来、周囲に影響を受けやすい私は、それらの本をいちいち読みたいと思ってしまう。
 それに加えここ数年は、過去に読んだ本を読み返したいと思うことが増えてきた。若い頃は、特に気に入った数冊の本を除き、一度読んだ本を再読したいと思うことはほとんどなかった。だから近年の再読欲求は自分にとってはとても大きな変化である。

 高校時代の現代文の教科書に安部公房の短編『棒』が載っていた。
 ある日、いきなり棒になってしまった男を主人公にした不条理小説で、授業の内容はまったく覚えていないが、気に入って読んだことは覚えている。その小説があるころから、ひどく気になるようになってきた。
 筋はだいたい覚えているつもりだ。棒になって、先生と生徒に拾われて、そして捨てられる。棒になったこと以外、劇的なことが起こるわけではない。文体も淡々と出来事を述べていたはずだ。
 その小説を読み返したいと思っている。その思いは一過性のものではなく、忘れた頃にふとその小説のことが気になる。年単位でそんな日々が続いている。
 しかしこの『棒』、現在入手しやすい本の中では、どうやら全集にしか収録されていないようだ(私の調査不足の可能性は多いにある)。
 早とちりをして『友達・棒になった男』という文庫本を買ってしまったが、この『棒になった男』と『棒』はまったくの別作品。文庫本を開いてから気づいたが、『棒になった男』は戯曲であった。
 そんなこんなで、私はまだ数年来の読みたい本と出会えないでいる。図書館で全集を借りようと思いつつ、悪い癖で先延ばししているのである。

 
 

『セロトニン』(ウエルベック著 関口涼子訳)【読書感想】

 セロトニンとは神経伝達物質であり、不足するとうつ病などを惹起させるという。幸福物質、などと呼ばれているのを耳にすることも多い。題名通り、本書セロトニン』(ウエルベック著)は幸福についての物語である。
 
 40代の白人男性である主人公は、幸福とはセックスを含んだ恋人関係であるとする。
 しかし彼は20歳ほど年下の恋人を愛しておらず、ヴァカンスでも寝室は別だ。そのうえ、PCを覗き見することで、彼女の不実も知ってしまう。さらには仕事にも意義を感じられない彼は鬱状態に陥り、抗鬱剤を服用することになる。彼の服用する抗鬱剤キャプトリクスの副作用は、性欲の喪失、そして不能だった。
 ある日、主人公はふとしたきっかけで、「蒸発」することを決意する。遺産もあり、金には困らない。仕事を辞め家を出た彼は過去の追憶に浸り、やがて過去の恋人たちや学生時代の親友を訪ねる旅に出る。
 きっと主人公は過去と未来を肯定する救いを求めていたのだろう。
 しかしそこで出会ったのは変わり果てた恋人や落ちぶれた姿の友人であり、時代の流れと生活の重圧に押しつぶされた人々の姿だった。

 私がこの物語に惹かれたのは、現代社会に生きていくことの困難をリアルに描いているからだ。この物語は救いがない。著者はまるで、現代社会では誰もが不幸だと言わんばかりである。
 『セロトニン』という題名が暗示することは、鬱状態などの感情は脳内の化学物質の作用に過ぎないという現代的な人間理解である。現代的・科学的な人間理解の下では、宗教的な救いはあり得ない。主人公はクリスマスイブにミサへ行こうとしたが、既に予約でいっぱいだった。
 ではその代わりに、現代社会で得られる幸福とは何か。男女の愛である、と主人公はいう。しかし彼はなかなか求めるものを得られない。
 
 そんな主人公に同情できたかといえば実は全く出来なかった。嫌いな言葉ではあるが、彼に対しては「自業自得だろう」と思った。彼自身も思うように、彼には幸せになる選択肢も過去にはあった。相思相愛の恋人がいて、彼女ら(彼には二度も機会があったのだ)と共に暮らすことを選ぶこともできたのだ。しかし彼は二度とも、自らの浮気により、その機会を不意にした。
 加えて、物語の後半、精神の拮抗を崩していると思われる彼(この物語は一人称で語られるが、彼は所謂「信用できない語り手」である)は、ついに犯罪的な行動にでる。彼の人間観やとった行動は擁護しにくい。
 アッパーミドル階級に生まれ、高度な教育を受け、十分な給料を得られる職を手に入れたが、抗鬱剤キャプトリクスを手放せない彼の人生を読み、私たちは現代の幸福をどのように受け止めるべきなのだろうか。

 ところで、私がこの物語を読み終わったときに思いうかべたものは太宰治の『人間失格』だった。「『セロトニン』は現代フランス版『人間失格』なんだろうな」と何故かぼんやりと思った。どうしてだろう。両者はまったく異なった物語であり、読了時の印象もまるで違う。ダメ男の一人語りで、女性との関係を軸に人生を振り返っていく、という構成に、共通点を感じたのだろうか。とりあえず、久しぶりに『人間失格』を読みたくなった。

セロトニン

セロトニン

スティーヴンスン『宝島』【読書感想】

 ミスター・トリローニは、スクーナーの出航準備を監督できるよう、波止場の旅亭に泊まっていた。そこまでは歩いたが、うれしいことに道は岸壁ぞいで、そこには大きさも艤装も国籍もとりどりの船がひしめいていた。水夫たちが、ある船では鼻歌まじりに作業をしており、ある船では、ぼくの頭上はるか、蜘蛛の糸みたいに細いロープにつかまっていた。今日までぼくはずっと浜辺で暮らしてきたのに、いまはじめて、海と間近に接した気がした。タールのにおいも、潮の香も、まるで新鮮だった。目にはいる見事なこしらえの船首像は、どれもみな遠い潮路を渡ってきたのだ。

 昔から海洋冒険小説が好きだった。特に大好きだった一冊がティーヴンスンの『宝島』。多くの人の手によって日本語訳もされており、一度は読んだことのある人も多いだろう。子どもの頃に読んだのは福音館書店版(坂井晴彦訳)だった。今も実家にはあるはずだ。現在、手元には訳者違いで2冊ある。鈴木恵訳の新潮文庫版と村上博基訳の光文社古典新訳文庫版だ。なぜ2冊持っているかといえば、本屋で見つけると懐かしくなりつい財布の紐が緩んでしまうからだ。それに2冊とも表紙のデザインが良い。手元に置いておきたくなる。
 少し前に光文社古典新訳文庫版で『宝島』を読み返したので、忘備録代わりに感想を書いておこうと思う。

 この本を手にする前までレ・ミゼラブル 』(ユゴー著)を読んでいた。『レ・ミゼラブル 』は文庫で5冊分という大長編のうえ、なかなかストーリーが進まないので読み進めるのに骨が折れた。脇目をふらず、一気に読んでしまおうと思っていたが、つい気分転換がしたくなり手に取ったのが、この『宝島』だった。
 気晴らしのつもりだったので、ぱらぱらと読みはじめる。読みはじめてすぐに物語が動き出す。ちゃんと一行目から主人公が登場する(レ・ミゼラブルは主人公が出てくるまでに100ページほど読まなければならない) 。そして一気に引き込まれる。


 主人公ジムは、海の近くの宿屋の息子。両親が営む宿屋に一人やってきた長期宿泊客は、いつも酔っては古い船乗りの歌をがなりたてている。彼が病で息を引き取ったのち、滞納していた宿泊料を徴収しようとトランクを開けると、出てきたのは異国の硬貨と「宝島」の地図。ジムは村の名士でたる医師や大地主のトリローニと共に宝島を目指すが、街で雇ったコックをはじめとする船員たちには何やら怪しい過去があった。
 
 ストーリーは単純だ。お宝を目指す主人公たち。そこに立ちはだかる様々な困難。勇気と無鉄砲さで、困難を打ち破っていく主人公。
 ストーリーの基本ともいえる構造の物語だが、大人の今読んでも十分に面白かった。
 主人公の困難への対応の仕方はなかなかに強引であり、若さゆえの無鉄砲さで、思慮深い大人たちの危機を救っていく。キャビンボーイにすぎないジムが、立派な大人である「紳士」たち相手に死闘を繰り広げる様は痛快である。最も、大人になってから読むと、自分勝手に猪突猛進するジムとは、一緒に仕事はしたくないな、などとも思う。

 読み返して気がついたのは、この物語の面白さはストーリーだけではなく、どこかダメなところのある登場人物たちの姿や、彼らの微妙な関係性の描写にもあるなということだった。
 出てくる大人は立派な人もいるが、それは少数で、多くのものは、肝心なところで怖気付いたり、おしゃべりすぎたり、二枚舌だったりする。現実と一緒だ。そして彼らは仲間同士であったとしても、決して一心同体ではない。それぞれに考えがあり、微妙な対立を孕んでいる。出船前の船長と地主の、大人同士らしい対立の様子など面白かった。仕事をしているとときおり目にする「あの」感じが、よく表されていると思う。

 人間心理の微妙な機微の書き分けはさすが、ジキル博士とハイド氏の著者だなと思う。著者の書いた大人向けの小説ももっと読んでみたくなって、『幽霊船』という小説を買ってしまった。2021年初の古本購入であった。

宝島 (光文社古典新訳文庫)

宝島 (光文社古典新訳文庫)