読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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『漢辞海』購入。

辞書が好きだ。
といっても、ものすごく好きというわけではなく、世間一般の人よりもほんのちょっと好きなぐらい。
いわゆる俄かである。
毎日どころか毎週も見ないが、二三か月に一度くらいは辞書を見てるかなというくらいの「好きさ」だ。
少なくとも、ここ十年ほど自分が漢和辞典を持っていないことを気にしており、いつかは買いたいと思っている程度には好きで、そして本日ついに古本屋で漢和辞典を購入した。

にしても、辞書の世界は奥が深いようで。
それは漢和辞典の世界も同様で。私はといえば、「漢字辞典」と「漢和辞典」の違いさえよくわからないような人間なので、あまり深くは入り込まないようにする。

辞典といえば『舟を編む』。ずっと気になってはいるのだけれど、映画やアニメにまでなってしまったので、もう少し時間がたってから読もうと思って、数年経ってしまった。映画化されたの、もう3年も前なのか……

古本屋には数冊の漢和辞典が並んでいた。どれも値段は2、300円。どれも一般家庭用の漢和辞典だ。
辞典の良し悪しなど、何もわからないので、奥付の年を確認し、一番新しかったものを選んだ。『全訳 漢辞海 第二版 2008年3月10日 第六刷発行』。ちなみにこの「漢辞林」という辞書、初版も2000年発行と比較的新しい。世紀末に生まれた漢和辞典。
とりあえず、気が向いたときにパラパラめくってみようと思う。

全訳 漢辞海 第三版

どうやらすでに、第三版がでているらしい。
ちなみに、私が一番好きな辞書は「類語辞典」です。国語辞典よりも面白い。

amazarashi『花は誰かの死体に咲く』

amazarashiが大好きだ。

dokusyotyu.hatenablog.com

音楽をほとんど聞いてこなかったうえ、飽きっぽい私には珍しく、ここ2年くらいずっとはまっている。
はまっているといっても、ファンクラブに入会する、ライブに通いつめグッズを買いあさるといったいわゆるファン行動をとっているわけではなく、一人でこっそりCDを聞き、やっぱり好きだ、と思っているのです。(いや、ファンクラブには入りたいです。入りたいのだけど……ここ一年の最大の悩みかもしれない。あとライブにも一回だけ生きました!次のライブもホントは行きたい。行きたいのだけれど……)
朝夕の通勤時に聞く曲はもちろんamazarashiで、最近は『世界収束二一一六』をエンドレスリピートしている。今日の帰り道の一番最後に聞いた曲が『花は誰かの死体に咲く』だった。ああ、この曲いいよなあ、と改めて思った。今日は嫌なことがあったので、まさしくamazrashiな気分だったのだ。

で、今。
夕食代わりにチューハイとビールを飲み、気分がよくなって、そして不意に、『花は誰かの死体に咲く』の歌詞の一節が思い浮かんだ。

讃えられることのなかった君の勝利も
一つ残らず土に還るのだ

そう、私たちは土に還るのだ。
酔った頭で改めて歌詞を読み直してみた。じっくり読んだ。
amazarashiの何が好きかといわれると、詞が好きなのだ。

綺麗でもなんでもねえ 命が今日も笑えば
人の傲慢の肯定 逃れられぬ命を 逃げるように生きてよ
笑いあえたこの日々も 失くした日の痛みも 何とか死にきれそうなこんな人生も
一つ残らず土に還るのだ 花は誰かの死体に咲く (作詞 秋田ひろむ)

「何とか死にきれそうなこんな人生」、普通出てきませんよね。
私も聞いていると、なんとか死に切れそうな気がしてきます。

にしても『花は誰かの死体に咲く』ってすごい歌の名前だ。はじめて歌の名前を知ったときは、『桜の森の満開の下』を思わず思い浮かべました……

監禁、人間性の喪失、孤独。そして詩情。『ささやかな手記』 サンドリーヌ・コレット

 読んだ。久しぶりのハヤカワミステリ。新書より少し背が高く、黄色い紙のハヤカワミステリだ。もちろん推理小説を期待して本を開いたのだが……あれ、これってホラー? 背表紙を読んでみる。

目覚めると、鎖をつけられ、地下室で監禁されていた――

 ホラーではなくとも、スプラッタ臭がするのは間違いではなかったようだ。そういえば数年前にはやったフランスのミステリ『その女アレックス』の冒頭も監禁シーンから始まった。鳥小屋に監禁されたアレックスの描写は、なかなかすごかった。そんなことを思い出した。
裏表紙の作品紹介を読み進める。

あらゆる農作業と重労働、家事に酷使され、食べ物もろくに与えられず、テオは心身ともに衰弱していく。ある日、老兄弟の隙をついて脱出を試みるが。フランス推理小説大賞。813賞の二冠に輝いた傑作サスペンス。

本の中に戻る。内容は題名通り「手記」の形態をとっている。手記の主人公が、テオだ。テオは粗暴な前科者、「たとえ本人が暴力に背を向けても、暴力のほうから近寄ってくるタイプの人間」であり、実の兄を暴行し寝たきりの障碍者にしてしまう。が、手記の中において、彼は加害者ではなく、被害者だ。
 内容は作品紹介の通り。彼は見ず知らずの老兄弟に誘拐・監禁され、老兄弟の私的な奴隷として過酷な労働を課せられる。

 そこにあるのは理不尽な暴力だ。

 さらに読む。読んでも読んでも、理不尽な暴力の描写がひたすら続く。思わず目をそむけたくなる。同じく奴隷として働かされている同居人は、怪我が元になりだんだんと弱っていく。

「どうあがいても逃げられないよ。昼も夜も足に鎖がつけられているんだから。それに下衆の片割れが、いつもそばに張りついている」(p68)

 そして読者である私たちも、この物語からは逃れられない。どこに惹かれたのか、明確に言葉にするのは難しい。それでも私は一息にこの本を読んだ。久しぶりの一気読みだ。
 この本の魅力は、暴力描写ではない。暴力にさらされる日々が日常になったとき、そこにある人生を書き出したことに、この本の魅力がある。そう、日常。テオは奴隷として、衰弱しつつも生き延びる。そこには閉鎖された人間関係があり、季節の移り変わりがある。
 訳者あとがきにはこうある。

ちなみに、仏ニュースサイト〈20minutes〉で著者はこの作品のテーマについて、「監禁、人間性の喪失、孤独。そしてそのなかにあっても残る詩情のかけら」と答えている。(p269) 

 詩情のかけら。死を目前にして生きるテオ。彼は、地下室の檻で底なしの孤独を感じる。そのなかで幼いころに学んだ詩を思い出す。自分の境遇を嘆き、時には死を思い、しかし生きようとする。こんなことを書くのは不謹慎なのだろうが、わたしは思わず、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』を思い出した。「それでも人生にイエスという」
客観的に見れば、この物語は決してハッピーエンドではない。テオはどうしようもない人間で、監禁されたことを差し引いても、決して善人ではない。主観的にも、彼はきっと幸せを感じることなく死んでいくのだろう。それでも。そんな人間でも。私たちの人生には、ときに、思いがけない形で「詩情」に出会う可能性を秘めている。

ささやかな手記 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)