人生時計。人生=24時間だとすると、一日は何分?
はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
風邪をひいた。鼻風邪だ。早く治したいので、普段より早く布団に入って寝ようとするのだが、鼻づまりと喉の違和感でなかなか寝付くことができない。おかげで寝る前読書が捗る捗る。ウエルベックの『プラットフォーム』、面白い。思わず徹夜読書したくなるほどの面白さだ。
風邪ぐらいではなかなか会社は休めない。今日は出勤日だったが、風邪のせいか、そもそもの私の性質のせいか、仕事に集中できず、考え事ばかりしていた。
ふと「人生時計」が頭に浮かんだ。
もしも人生が24時間だったら、今は何時にあたるのか、というアレだ。初めて言い出した人が誰かということは知らないが、私は中学校の卒業式のときにこの話をはじめて聞いたように思う。15歳、3で割ると、朝5時だ。まだまだ自分の人生はこれからだ、そう思った。
今年、26歳になった。3で割ると、8時40分。出社して、朝のミーティングが終わるか終わらないかぐらいの時間だ。何とも言えない。けれどもまだ、なんでもできる時間だ。
年齢を3で割る、ということは、人生を72歳であると仮定してのことだ。最近は、平均寿命を元にして、3.5で割るということもあるらしい。84歳まで生きること仮定していることになる。26歳を3.5で割ると、7時半前になる。部屋の中で慌ただしく出社準備をしているころだ。
もっとも健康寿命というものは、男性が71.11歳、女性が75.56歳だというから、3で割るというのは、なかなかうまく出来ているのかもしれない。
両親の年齢を3で割ってみる。19時。残業がなければ、家に帰って夕食にする時間だろうか。
米寿を迎えた祖父は、24時をぐるっと回って、朝の5時過ぎか。徹夜して、5時まで起きてりゃ、そりゃあ調子の悪いところも出てくるわな。
ところで。
一生が24時間だとすると、一日は何分だろうか。
3年=1時間
1年(=365日)=20分(=1200秒)
1日≒3秒
3秒か。一瞬、ではないが、一生のうちでは一瞬に限りなく近い。
3秒を大切にしているか、というと、なかなかしていない。ぼおっとしていたら、あっという間に過ぎてしまう時間だ。
でも私たちの人生は3秒の集積に過ぎない。いかに3秒を、一日を大切にするかということが大切なのだろうとは思う。まあ結局、3秒の何倍もの時間をかけて、こんな雑文を書くことに大切な人生を費やしてしまっているのだけれど。
5年後、私は31歳。10時20分。まだまだ午前中。休日のことを考える。まだその日一日をどう過ごすべきかと布団の中で考えていることもあるくらいの時間だ。まだまだ遠出だってできる。計画を変更してやっぱり引きこもっていよう、とか、引きこもってばかりなのもあれだしとりあえず図書館へでも行こうとか、一日はまだまだ長い。
10年前。16歳の私は何にでもなれると、本気で思っていた。
5年前。21歳の私は、大学の研究室選びを通して、その先に規定される将来を見極めようとしていた。
5年後。31歳の私は、たぶんこの地にはいないだろう。どこにいるかは分からない。何になれているのかも分からない。でも私の可能性は、16歳のときと同じように全方向に広がっているのだろう。
人生を悲観するのはまだ早い。
『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。他人に支配されず自由に生きる技術』安冨歩著
相変わらず迷ってばかりいる。
そして相変わらず、「自分は自尊心が低いのではないか」と思ったりしている。自分と友人との差をみては、私になくて彼彼女らにあるものを考え込んだりしている。
「生きづらい」「自己嫌悪」というキーワードに惹かれ『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。他人に支配されず自由に生きる技術』という本を手に取った。
プロローグ 自己嫌悪は、「自分が劣っているから」感じるわけではない
第1章 「自己嫌悪」は何を引き起こすのか?
第2章 なぜ「自己嫌悪」があると、仕事がうまくいかないのか?
第3章 「自己嫌悪」の正体とは何か?
第4章 「自愛」に向かうために、できいること
そういえば、と思い出す。
高校生くらいまで、私は私のことが大好きだった。それがいつの間にか「自己嫌悪」が増えていき、大学を出る前あたりには自分のことが大嫌いな人間になっており、「自分の人生は失敗だった」という言葉が頭から離れなくなった。自意識過剰な人間なのだ、私は。
それにしても同じ自意識過剰なら、「自分大嫌い」よりも「自分大好き」の方がよかった。著者は「「自己愛」は、もはや言うまでもないかもしれませんが、「自己嫌悪」の裏返し」とはっきりと言っており、それはその通りだな、と思うのだけれど。
この本には「立場主義」という言葉が出てくる。立場主義とはなにか。「「立場主義」とは、「立場」を守るために、なんとしても「役」を果たそうとする精神」であると著者はいう。
そもそも、「立場」や「役」はなぜ必要なのでしょうか。
会社員としての私。
部長としての私。
父としての私。こうした「立場」を求めるのは、自分自身に不安を感じるからです。
「自己嫌悪の引き起こす不安」から逃げる手軽な方法のひとつは、○○としての私、という枠を自分にはめ込んで、それを演じられたら、「自分のアイデンティティが確立された」と思い込むことです。
枠に自分を当てはめて、思考を停止させる。社会人となり「会社員」という立場を手に入れた。少なくとも会社にいる間は、自分は「会社員」という役割を果たしていけばよい。そこに個人の生き方に対する疑問なぞ、挟み込む余地はない。
しかしふと、社会的な立場や対人関係上の立場を離れた個人としての私を意識する瞬間がある。自分が何者であるのか分からなくなる。
私は何が好きなのか。
何を恐れているのか。
何を望んでいるのか。
私はどこへ向かっているのか。
私は今も迷ってばかりだ。
『漢辞海』購入。
辞書が好きだ。
といっても、ものすごく好きというわけではなく、世間一般の人よりもほんのちょっと好きなぐらい。
いわゆる俄かである。
毎日どころか毎週も見ないが、二三か月に一度くらいは辞書を見てるかなというくらいの「好きさ」だ。
少なくとも、ここ十年ほど自分が漢和辞典を持っていないことを気にしており、いつかは買いたいと思っている程度には好きで、そして本日ついに古本屋で漢和辞典を購入した。
にしても、辞書の世界は奥が深いようで。
それは漢和辞典の世界も同様で。私はといえば、「漢字辞典」と「漢和辞典」の違いさえよくわからないような人間なので、あまり深くは入り込まないようにする。
辞典といえば『舟を編む』。ずっと気になってはいるのだけれど、映画やアニメにまでなってしまったので、もう少し時間がたってから読もうと思って、数年経ってしまった。映画化されたの、もう3年も前なのか……
古本屋には数冊の漢和辞典が並んでいた。どれも値段は2、300円。どれも一般家庭用の漢和辞典だ。
辞典の良し悪しなど、何もわからないので、奥付の年を確認し、一番新しかったものを選んだ。『全訳 漢辞海 第二版 2008年3月10日 第六刷発行』。ちなみにこの「漢辞林」という辞書、初版も2000年発行と比較的新しい。世紀末に生まれた漢和辞典。
とりあえず、気が向いたときにパラパラめくってみようと思う。