料理研究家の研究。阿古真理『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』【読書感想】
どちらかといえば料理は好きだ。
だけど料理の本を読んだり、自炊関係のブログやテレビの料理番組を眺めるはもっと好きだ。
レシピ本を見ながら料理をすることよりも、ただただレシピ本を眺めていることの方が多い。
残業帰りに半額総菜やらインスタント食品やらを買ってきて、NHKの『今日の料理』を観ながら食べる背徳感も大好きだ。
料理本や料理番組の主役はもちろん料理自身だろうが、その次に重要な役割を果たすのが「料理研究家」だろう。
なんという曖昧な職業だろう。その定義の曖昧さはともかくとして、「小林カツ代」「栗原はるみ」といった料理研究家の名前は、料理に興味のない方でも、聞いたことがあるのではないだろうか。
そんな料理研究家を主眼においた新書が『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』である。帯には「本邦初の料理研究家論」とある。
まえがき
プロローグ――ドラマ『ごちそうさん』と料理研究家
第一章 憧れの外国料理
第二章 小林カツ代の革命
第三章 カリスマの栗原はるみ
第四章 和食指導の系譜
第五章 平成「男子」の料理研究家――ケンタロウ、栗原心平、コウケンテツ
エピローグ――プロが教える料理 高山なおみ
あとがき
料理研究家と時代
料理研究家の活躍を考えるにあたり、その背景となる時代を無視するわけにはいかない。むしろ「料理研究家を語ることは時代を語ることである」と著者はいう。
彼女・彼たちが象徴している家庭の世界は、社会とは一見関係がないように思われるかもしれないが、家庭の現実も理想も時代の価値観とリンクしており、食卓にのぼるものは社会を反映する。それゆえ、本書は料理研究家の歴史であると同時に、暮らしの変化を描き出す現代史である。
本書では「時代を象徴する料理研究家として独自に選んだ」料理研究家の、個人史とその背景にある時代、そして彼彼女らの提供した料理や「料理観」について書いている。かといって、この本は決して堅苦しい本ではない。むしろもっと堅苦しくてもいいのに、と思うくらいだ。
ビーフシチューの定点観測
そして面白いのは、時代や料理観を比較するために、各料理研究家の「ビーフシチュー」のレシピを比較していることだ。
例えば、明治生まれで洋行帰り、テレビ最初の料理番組にも起用された江上トミのレシピはブラウンソースから手作りする本格派だ。一方、昭和12年生まれの小林カツ代は、料理は「化学であり科学である」という持論を元に時短レシピを次々と生み出したが、その彼女が作るビーフシチューのレシピには缶詰のドミグラスソースが登場する。そして小林カツ代の息子ケンタロウのレシピは逆に、ブラウンソースを手作りする手間のかかるものであった。著者はケンタロウのことを「手間を惜しむ方向へ加速していた家庭料理の世界に風穴を開けた。」と評する。
ちなみにめんどくさがりな私は、ブラウンソースを手作りしたことはない。私の母も同様だったと思う。
この本に不満があるとすれば、ここ最近の料理研究家の話題にほとんど触れていないことだ。料理研究家を取り巻く環境は急激に変化しているように思う。クックパッド、料理ブログ、匿名掲示板に食品メーカーのレシピサイト。インターネットには料理が溢れているし、ノンフライヤーや電気鍋といった興味がそそられる調理家電が次々と発売されている。
「料理研究家」というものがこの先どうなっていくのか。先の見えない時代と言われて久しい。時代を映す「料理研究家」がこの先どのような形になっていくのか……過去をいくら眺めても、見えてはこないということか。
恋愛小説じゃないけど。『告白』。町田康【読書感想】
日曜日。
平日は毎日のように、次の休みの日こそ遊びに行こうと思っているのに、いざ休日を迎えると腰が重い。
都会の本屋へ行きたいなと思うのだけど、まあ、図書館から借りた本も、キンドルには読み返したいシリーズ物も、部屋の片隅には積読山もあるし、都会はまあ今度でいいや……となって一カ月くらいが経っている。
それに今週は、車は車検。慣れない代車でドライブはあまりしたくない。だからといって電車でどこか行こうにも、天気が悪いし金がかかる。
そう、何かをするには金がかかる。
そして私は金がない。
あまりの積雪に恐れをなしてスタッドレスタイヤも買ったし、車検代もかかるし、布団が寒くて毎日のように布団乾燥機を使っていたら電気代が上がったし、三日に一日は湯船にお湯をためていたらガス代も上がった。欲しい欲しいと思っていた本(『美味しいマイナー魚介図鑑』)も買ってしまったし、土曜日には30%割引になっていた牛スジ肉も買ってしまった。
給料は安いし、だからといって、仕事を頑張ったり転職を考えたり投資を始めるのも面倒くさい。
お金、欲しいなあ。宝くじ、当たらないかなあ。
お金で買えないものはあるというのは確かにそうだろうけども、金があったら解決することも私の人生には多い。
ああ、金金金金金金。
銭銭銭銭銭銭
牛スジ肉をとりあえず煮込みながら読みはじめた町田康の長編小説『告白』には、「銭」という文字がよく出てくる。
なぜなら主人公が博打打ちだからだ。
舞台は明治時代。500円が大金だった時代のはなし。生活で使うお金の単位には「銭」と「円」が共存している。
主人公熊太郎は、賭博をしては負け一文無しになったり、騙されたり見栄を張ったりで金を工面しなくてはなったりする。『告白』は、そんな物語だ。
前情報をまったく得ずに読み始めたので、まず、明治時代の話であることに驚いた。
『告白』というタイトルから、現代ものの恋愛小説――もちろん、作者が町田康なので一筋縄ではいかないだろうけど――と思って読み始めたのであった。だから冒頭の一行目から、
安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者になり、明治二十年、三十歳を過ぎるころには、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者に成り果てていた。
父母の寵愛を一心に受けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。
いかんではないか。
こんな具合で、衝撃を受けた。うん、これは恋愛小説じゃない。
ではなぜ告白か。熊太郎は何を告白するのか。
そう思って読み進めるのだけれども、物語の方向性が読んでも読んでも解らない。
物語の型として、起承転結というのがあるが、今が物語全体のどの部分なのか、まったくわからなかった。
だからといって物語が進まないわけではない。熊太郎は順調に子供から大人になっていくし、それに合わせて賭けに負ける額も大きくなっていく。
それでもこれがどんな物語なのかということが読んでも読んでも解らなかった。読んでも読んでも熊太郎はアホなことばかりをしている。
が、それども物語はどんどん白熱していき、特に最後の100ページ、おおお、と思っているうちに物語は一気に「転」じ、まじかそうなるのかと思っていると、ラスト5ページでドンデン返しが迎えてくれた。
そして「告白」は?
最後に熊太郎はある一言を発する。しかしそれは、告白ではなかった。
俺は生きている間に神さんに向かって本当のことを言って死にたい、ただそれだけなのだ。
最後まで読んでぼんやりと思った。むしろこの物語は、告白する言葉を持たなかった、それゆえ告白できなかった男の悲劇なのだ。
考えすぎる人
熊太郎は不幸なことに、良くも悪くも思弁的な人間だった。しかし彼の生きたのは明治初期の農村地帯。周囲の人間は思考と発する言葉が直接的につながっている者ばかりだった。
そんななかでひとり思弁的な熊太郎はその思弁も共有する者もなかったし、他の者同様、河内弁以外の言語を持たず、いきおい内省・内向的になった。
考えすぎる熊太郎は、何も考えず親や世間の言うことに従うことができなかった。
14歳の熊太郎は思う。
そんな熊太郎はますます虚無・退廃に追い詰められていき、ついには真面目になにかと一生懸命取り組む、ということは恥ずかしいことだと思うようになった。
といって熊太郎は不真面目だったわけではなく、熊太郎もできれば真面目にやりたかった。しかし脇目もふらず真面目にやることが果たして真面目なのかと熊太郎は真面目に思った。
脇目もふらず、すなわち周囲に対していっさい顧慮しないで真面目にやるというのは一種のエゴイズムではないかと熊太郎は感じていたのである。
そして熊太郎はそのことを説明する言葉を持たなかった。
もし熊太郎が現代に生きていたら。モラトリアムという期間を過ごす時間を与えられていたら。哲学や思想を勉強する機会があったのなら。
読みながら何度か思った。熊太郎は現代社会では、案外うまく過ごせたのではないか。
それと同時に、考えすぎて動けなかった過去の自分や、その結果として流されるように生きている今の自分と熊太郎を重ねてみたりもした。考えすぎる故に恥の意識が強くかつ見栄っ張りな熊太郎は、周囲の人から見れば「アホ」である。が、現代社会に生き、考える言葉を持つことを当たり前としている私たちにとって、熊太郎的な部分は誰もが共有している。アホなことばかりしている熊太郎を自分のことのように恥ずかしく思ってしまうのは、私の中に、考えすぎたり自意識過剰すぎてアホなことや失敗してしまったことが、忘れてしまいたい過去として残っているからだろう。
私は、こんなブログを続けている程度に、自意識の強い人間だ。熊太郎のように道を踏み誤らないように気をつけなければ……
パソコン断ち
今週のお題「新しく始めたいこと」
ふと思い立って、2週間ほどパソコン断ちをしていた。
目の前にノートパソコンがあると、ついだらだらとネットをしてしまう。
人生は短い。
私は加速度的に老いていく。
ただでさえダメな人間なのに、このままではますますダメな人間になってしまう。
そんな危機感もあってのパソコン断ち。
が、どうやら私がダメな人間なのは、パソコンのせいではなかったようだ。
デバイスの有無にかかわらず、私は何もできない人間だ。
やりたいことはたくさんある。
読みたい本も、観たい映画も、行きたいところもいっぱいある。
このまま流されるように日常を送ってしまったら、何一つできないのではないか。
あっという間に老い、仕舞には気力もこのような危機感もすべてがなくなってしまうのではないか。
私は、まだ、自分がただのダメ人間である、ということを認めることができないでいる。