本への書きこみはアナログな情緒? 『論語』を古本屋で買った話
目の前に本がある。
本の中で最も価値があるものは、その中身、特定の形をしたインクの羅列である。
さらに言えば、その羅列が表わす意味である。
と、一般的には考えられている。
要は中身、ソフトに価値があり、ハードには価値がない、と。
そして純粋な中身だけを伝える技術として電子書籍が生まれた。
ここではその功罪を問うことはしない。
電子書籍ではないが、青空文庫で太宰治の『斜陽』を読んだのは大学一年生の夏だった。机代わりのダンボールの上に置いた小さなノートパソコンに齧りついて、一気に読んだ。クーラーも扇風機もない部屋に、西日が眩しかった。
作品のもつ力が電子書籍によって失われるとは思わない。
しかし、もう一度、目の前の本を見てみる。
そこには眺めて楽しい帯があり、工夫に富んだカバーがあり、選び抜かれた紙がある。
物質に閉じ込められた本を眺めるのはそれだけで楽しい。
同じレーベルが一堂に並べられた本屋の棚は有無を言わせぬ壮観さがある。
紙の束である本には、電子書籍にないメリットが、見落としがちだが、確かにある、と思う。
実はこの本に、前の持ち主の書き込みがあった。というよりも書き込みを見て買った。
この書き込みが面白いのである。
訳文の上に、ほんの一言。
「そうだね」という同意や「日本男子(笑)を否定」といったツッコミが記されている。親への、現在の水準からみれば理不尽な孝行を記したところには大きな×印も。
孔子との対話もよいが、この本を以前手に取って、書き込みまでしていたXさんとの会話も面白い。
はじめは本が傷つかないようにか鉛筆で記していたが、後には青いボールペンに変わっている。また後半には書き込みがないことから、X氏が飽きてしまったであろうことまで分かる。
X氏はどんな人だろう。
字の稚拙さや、コメントから勝手に想像する。(以下妄想)
X氏は、20代後半の男性となった。大学出のサラリーマンである。
X氏はその日、代わり映えのしない毎日と、成果の上がらぬ仕事にうんざりして帰り道に本屋に寄った。以前、安っぽい自己啓発書を読んで、なんとなく気分が晴れたような思いを覚えたことがあった。
それに今の職場に、自らのために本を読んでいるような人間はいない。俺の会社は馬鹿ばかりだ、と周りを見下す思いがどこかにあった。
そこで平積みになったこの本に出会う。岩波文庫のキャンペーンで大々的に売り出していた。『論語』孔子だ。中学か高校か、漢文の時間で読まされたな。
X氏はちょっと高い栄養ドリンクを買うような気持ちでこの本を買った。
それから毎夜、寝る前に論語を捲った。右手には鉛筆。本はどんどん書き込んで汚すべき。以前、経済史のコラムで誰かが言っていた。読んで、書きこむ。大昔の緯人を評価する。その行為は心地よい。
上司も、何かあれば司馬遼太郎を持ち出して説教する課長も、論語を通読はしていないだろう。そう思うことも気持ち良い。
しかしX氏の読書習慣は続かない。仕事が忙しくなったのだ。疲れは、心地よい眠りを誘う。
本を開かず眠る日が一日二日と続く。はじめのうちは、読まないことに罪悪感を覚えたが、しかしやがて、読書の習慣があったことすら思い出さない日がくる。たまに思い出しても、今更『論語』を読む気にはなれない。
ある休日、部屋の掃除の際、部屋にもう読まなくなった漫画本がたまっていることに気づく。もう何年も読んでいない。いっそのこと売ってしまうか。
ダンボールに漫画を詰めた。漫画を詰めた後もダンボールにはまだ余裕がある。そこでもう読まないだろうと思われる本を隙間に詰める。その中の本に、今、私が手にとっている『論語』もあった。
こうしてX氏と『論語』の蜜月は終わり、本は再び社会へと旅に出る。
以上、つまらない妄想でした。
ちなみにX氏が唯一、ポストイットを貼っていた箇所は
『巻第一 為政第二十五 子の曰く、学んで思わざれば即ち罔し。思うて学ばざれば即ち殆し』
本を読むだけでも、想像するだけでもいけない。その通り。
まあ因果があって手に入れた本、大切に読んでいこうと思います。
そしてこのような出会い、本の旅は、電子書籍にはない本の持つ情緒だろう。
(ところで私は電子書籍リーダーを中古屋で買うことに情緒を感じるだろうか)