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読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

『神、この人間的なもの―宗教をめぐる精神科医の対話―』なだいなだ

新書・ノンフィクション 読んだ本

 海外ニュースを見る。嫌な事件が多い。

 宗教とは何か、考える。どうして人類は宗教を生みだしたのか。個人的には個々の宗教の教義よりも、「宗教」という仕組み自体がどうして生まれたのか、社会および個人のなかでどのような役割を果たしているのか、ということに興味がある。きっとこのような疑問について研究している分野もあるのだろうけど、何学になるのだろう。宗教学?文化人類学

精神科医、宗教を語る。

 図書館から借りた一冊、なだいなだ著『神、この人間的なもの―宗教をめぐる精神科医の対話―』は読み物として面白かった。70歳を超えた著者が、精神科医の視点を持って宗教について語るというもの。専門書ではない。一個人の宗教観についての本なので、軽いエッセイのように読むべきものだと思う。それでもなかなか面白いかった。
 目次を写す。「宗教は集団精神療法だったか」など、刺激的な章名が並ぶ。

まえがき
序章 Tの訪問
第一章 信者にもいろいろある
第二章 教義より重要なのは
第三章 宗教は集団精神療法だったか
第四章 二千年の後退り?
第五章 後退りの結果
第六章 狂いによって狂いを治す
第七章 精神医療という宗教
第八章 宗教は死なず拡散した
第九章 葦の髄から永遠をのぞく―狂気と習慣
短いあとがき

 本文は二人の精神科医の対話という形式をとっている。「ぼく(B)」は無宗教を自認し、その大学時代の友人「T」は、戦中に結核にかかり療養した際にカトリックに入信した。

 70歳を越えた二人は久々に再開する。面白いのは、カトリックのTに「じつは、神様がいるかどうかは分からない。むしろ、いないんじゃないか、と思う気持ちの方が強いな」と語らせること。そして、神様の有無や教義の内容自体よりも「信じること」自体が重要であるとするところ。
 確かに、多くの人は自ら選んで宗教に入るのではない。生まれた土地に根付いていた宗教に、生まれたと同時に入信する(させられる?)。
 新興宗教を信じる際だって、教義を十分に審議したうえで入信するのではなく、身近にいた教徒に誘われて(「とにかく私は教祖様を信じたら健康になったから、あなたも信じたら?」)入信することの方が多いのだろう。Tも、入院中たまたま慰問に訪れたカトリックの神父と仲良くなって入信したという設定。Tは、別にカトリックじゃなくても良かったと言う。
 大切なのは、信じようとすること。そして集団に属することだ。

T「G神父の周りには、おれと同じような結核の患者が集まっていた。一緒にお祈りする。それだけが共通。だが、みんな結核か、と思ったら気持ちが軽くなったよ。仲間だと思ったら、孤独感がすっと消えた。健康な人間へのねたみを忘れたら、なんだかこころが静かになった。そしてこれが宗教なんだな、と感じたよ。」
B「それじゃあ、宗教って、一種のグループ療法じゃないか。」

 宗教の機能とは、あることを信じている集団に属することで、孤独から脱すること、安堵感あるいは熱狂を得ること。そしてそのことで、集団をまとめること。であるとすれば、いわゆる宗教だけが宗教の機能を果たしているのではない。科学も、イデオロギーも、一種の宗教なのである。

T「だが、ほんとうに科学を神にしなければいられない人間、医学を神にしなかればいられない人間がいるんだな。世の中にいるというばかりではなく、自分自身の中にも、そういう部分がある。それがなぜかを考えていかなければ、自分が脱宗教しただけではことがすまない。それでは無神論を宗教にしただけだ。」

狂気に生きる私たち

 すべてのことが、宗教であるとする。そして宗教にはその本質的な部分に「狂気」がある。宗教とは日常的な狂気なのだ、とTは言う。本書の後半はこの「狂気」が主題となっている。

 狂気の例としては、例えば、戦争。これは分かりやすい例だろう。正気のままでは、普通の一般市民は人を殺せないだろう。
 本書には挙げられていなかったが、私はバブル期の日本も、集団的な狂気の中にあったのだろうと思う。先日飲み会で、バブル期には手を挙げてもタクシーが止まらなかった、万札を振ってやっと止まったと教えて聞いた。これこそ狂気ではないか。狂気の中にいるときは、誰も自分が狂気の中にいるとは考えない。

 私は今、狂気の中にはいないと思っている。でも、50年後100年後から見れば、今の私は狂気の中にいるのかもしれない。BとTは、精神科医の先輩たちを、患者を閉じ込め、ロボトミー手術を施すなんて狂気だったと評する。しかしその言葉は直ちに自らに返ってくる。
 では、正気はどこにあるのか。著者は、正気などないという。ただ、狂気に濃淡があるだけだ、と。

 狂気を相対的に見て、どの狂気が「マシ」かを判断する。
 なるほどな、と思う。
 そして、とても難しいことだ、と思う。
 なぜならその判断を行うのが、絶対的に正しい神ではなく、人間であるのだから。その判断が絶対的に正しいなんてことはない。ではどうするべきか。私たちは驕らず謙虚に考え、対話を重ねていかなければならない。「集団の狂気ほど強い正気意識を持つものはない」のだから、慎重に。

 最後に、印象的だった言葉を引用する。戦争時代を生きた著者だから書ける、すごく正直な言葉で驚いた。

おれはあの狂気の只中で、ある種の幸福を感じていたよ。一種の酔いだね。自分たち日本人は優秀であるという優越感。つかの間の戦争での勝利が、気分を高揚させてくれて、そして周囲のものと感じる一体感。見知らぬ人間と、固く仲間として結ばれて、運命を共にするという安堵感。そうした幸福感にしびれていたよ。

集団で、軍歌を歌いながら、一糸乱れず行進しているときにしびれていたな。あれは今考えると、ファシズムというかミリタリズムというか、それの精神療法を受けていたといってもいいな。

読書録

『神、この人間的なもの―宗教をめぐる精神科医の対話―』
著者:なだいなだ
出版社:岩波書店岩波新書 新赤版806)
出版年:2002年

神、この人間的なもの―宗教をめぐる精神科医の対話 (岩波新書)